#4「部屋と赤いパンツと自意識と、私」

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#4「部屋と赤いパンツと自意識と、私」

お気に入りの真っ赤なパンツがある。一応明言しておくと、パンツって下着のパンツじゃなくてズボンの方である。昔のヤンキーが履いていたボンタンみたいな、たっぷりとしたシルエットの麻のパンツだ。

その日は昼間の暑さが地面から抜けて、風が気持ちよく肌を撫でた。アイスを食べながら散歩したくなるような金曜の夜、私は地元のライブバーで毎月やっている弾き語りのイベントの手伝いに、その赤いパンツを履いて出かけた。

ライブを見ていると、たまに思うことがある。音楽やお芝居、お笑いのライブとか人前で何かを表現して、その表現に対してダイレクトに反応をもらうってなんて恐ろしいことだろうかと。こうやって書いたり消したりもできないし、「できました」って完成形だけを見てもらうわけじゃない。でも、その恐ろしさを乗り越えて、反応が良かった時はめちゃくちゃ気持ち良いのだろうなあ。それはきっと、私がこの先味わうことのないエクスタシーなのだろうなあと。生の表現に対する憧れを生ビールで流し込んでいたら、トイレに行きたくなった。

用を足して赤いパンツをあげると、手元がするっと手応えなく動く。あれっと思ってチャックを見ると、片方がスライダー(っていうらしい)から完全にとれていた。一瞬にして頭皮からじわりと汗が滲み出て、噛み合わせを直そうとしばらくかちゃかちゃしてみるも、どうも無理そうだった。ため息をついて、狭いトイレの天井を見上げてみると、小さな換気扇にふわふわのほこりがもっさりびっしりとついていた。

さて、どうしよう。バーにはマスターとお客さんが3人。このままチャック全開な状況にハラハラしながら何食わぬ顔でドリンクを作り、「あっチャック開いてる」ってバレように動いてバレないうちに即帰宅するか。それとも「あっチャック開いてる」って思われるくらいなら先に「チャック開いてます」と宣言してしまうか。私は自分で並べた選択肢に対し、そう迷うこともなく後者を選んだ。「チャック壊れた!」ドアを開け、トイレを出るとそう叫んだ。

とはいえ一刻も早くチャックを直したい。そう思って、みんなからは見えない位置の椅子に座って再び悪戦苦闘していると、ふと「自意識」という言葉が頭に浮かんだ。はやる気持ちをよそに、その言葉の方が気になってしまってチャックに集中できずにいたら、マスターが横からそっと、何かを差し出してくれた。見ると、それはパンキッシュなあみあみの黒いニットについていた、パンクな安全ピンだった。私はそれを手に取りトイレに戻って、社会の窓と呼ばれるチャックをピンで止めた。

自意識って、例えば他人が自分のことをどう思っているか気になったり、良い人だと思われようと振る舞いを気にしたりすることだけど、どうしてわたしは堂々と「チャック開いてます」と言えるようになったのだろう。いつからだろう。いつだったら、できなかったのだろうか。中2? 絶対無理。高校生? 無理、その場に男の子がいたらなおさら。大学生? 同じく。ならばそれ以降であるのは確かだけど、明確なポイントは自分でも分からない。

どうしてこんなタイミングで自意識が気になったかというと、チャックが壊れたと自己申告しても何も恥ずかしさはなくて、むしろ自分を取り繕わなくても良いと思うと、なぜだか物凄く清々しい気分だったからだ。

英語で“Fake it, untill you make it.”という言葉がある。「うまくいくまでは、うまくいっているようにFake(フリ)をする」という意味だ。私は、高校生や大学生の頃は特に、「周りを気にしない人間」としてありたい、見られたい願望が強くて、まさしく「自分はそういう人間ですよ」って“フリ”をしていた。おそらく素質としてはすでに備わっていたのだろうけど、当時の私には「そういう人間」に辿り着くための術が“フリ”をすることしかなかった。今だから俯瞰することができるけど、自分がどんな状態でいれば一番心地良くなるのかを、とにかく探していたのだと思う。思春期って大変だけど、大事な時期だ。

そうして私が“フリ”を続けた暁に得たものは、「チャック開いてます」宣言が人前でできるようになるという余裕だったみたいだ。言い換えると、余裕の代わりに私は何かを失ってしまったとも言えるけれど、それでも得たものの方がずっとずっと大きいような、そんな気がする。

それにしても、「社会の窓」とはよく言ったものである。男女ともにその窓の向こうにある桃源郷で逢瀬を交わした結果、人間という生物を産みだし、社会がつくられていくのだから。社会の窓が開いたことによって、私の心の窓も完全に開いたのかも‥‥しれない。

さあ、そろそろオチをつけようかと筆を進めるも、いや待てよと、キーボードを打つ手を止める。自意識から解放されたと思ったけど、「『あっチャック開いてる』って思われるくらいなら‥‥」と考えてしまうのもまた自意識? うーん、考え始めたら深みにはまりそうだから、今日はここまでに。しかし、チャックが壊れたのがデートの時じゃなくてよかった。まあ、デートの予定はこれから作るのだけど。そして今も、チャックが壊れたままのお気に入りの赤いパンツは、私に履かれるのを部屋の隅で待っている。

<過去の連載🔗>
#1「平泳ぎは前に進むらしい」
#2「死ぬときはみんないっしょ。」
#3「早くオバサンになりたいかも、しれない」

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Chiba Natsumi

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