大いなる夢を遺したデザイナー、ジャン=ポール・ゴルチエからの招待状

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大いなる夢を遺したデザイナー、ジャン=ポール・ゴルチエからの招待状

ジャン・コクトーが書いた、エリザベートとポールの姉弟2人だけが暮らす世界が、美しき少年ジェラールとの出会いで崩壊して行く『Les Enfants Terribles』(恐るべき子供たち)という物語がある。

『Les Enfants Terribles』は“レ・アンファン・テリブル”と読む。

アンファン・テリブル:ジャン=ポール・ゴルチエ Jean-Paul GAULTIER

アンファン・テリブルとは、子供らしい率直な言動と残忍性とで大人を恐れさせる子供のこと。

それが転じ、非常に異端的で、場合によっては攻撃的または反抗的な”天才”を意味する言葉としても知られている。

ウエストのラインを補正する女性用ファウンデーションのコルセット、フランス海軍のクォーターマスターや船員が着用するブルトンストライプのマリニエール、キャットフードが詰め込まれたブリキの缶詰。

オートクチュールともプレタポルテとも程遠いこれらをモチーフに服を作り上げ、その創造性で世界中のファッションを神変させたジャン=ポール・ゴルチエ(Jean-Paul GAULTIER)は、ファッション業界の“アンファン・テリブル”と称されている。

ギフテッド・タレンテッド

1952年4月24日、フランスはパリ郊外のコミューンにアンファン・テリブルの歴史は始まる。

ジャン=ポール・ゴルチエは、仕立て屋だった祖母マリーが語る20世紀初頭のドレスの物語によってファッションの世界へ招待された。当時彼は7歳だった。

「自分もファッションの世界で働きたい」と、少年ゴルチエは夢想するようになる。

洋裁を覚えた少年は、お気に入りのテディベア、ナナのために円錐形のブラジャーを作って着せた。

会計士であり、息子に教師になってほしいと願う両親のためにファッションスクールには通わず、洋裁という遊びと共に青年になったゴルチエは、多くのクチュリエに多くのスケッチを送った。

そして宇宙開発競争が恐怖と夢、未来を想像させ、人類が月面着陸に初めて成功した60年代。コスモ・コールによって一世を風靡したピエール・カルダンに見出され、1970年、ゴルチエは18歳の誕生日に彼のアシスタントとなる。

巨匠たちと小さな黄金の国:日本

この出来事は、ゴルチエのキャリアの中で最も大きなギフトだった。

ピエール・カルダンのメゾンでは多くの日本人女性が働いていた。ゴルチエは彼女らからJaponの文化や唯一無二の審美眼を学ぶ。

また1970年といえば、Galerie Vivienne(ギャルリ・ヴィヴィエンヌ)でブランド初のショーを行った高田賢三のKENZOがパリを賑わせていた。

ゴルチエは芸術の都から、遠く離れた小さな黄金の国をいつも眺めていたのだった。

ピエール・カルダンのメゾン卒業後、ブリジット・バルドーのウェディングドレスを手掛けたジャック・エステレルや、女性が背負う古くて堅い習慣を破り、衣服にリラクゼーションや自由を見出したジャン・パトゥのもとでオートクチュールを学んだ。

ジャン=ポール・ゴルチエはいかにして出現したか

迎えた1976年。

24歳にしてパリで確固たる地位を築いていたゴルチエは、初のアクセサリーコレクションとともに自身の名を冠したプレタポルテコレクション“JEAN PAUL GAULTIER”を発表する。

デビュー前年、ナイトライフの街角に出会い、生涯をかけて愛すこととなる恋人でありビジネスパートナー、フランシス・メヌーゲの支えのもとに実現したまさに日出ずるコレクションとなった。

二人の出会いの場であるストリートやクラブのカルチャーを取り入れ、ヴィンテージのコルセットや編み込みの藁を使った眩いばかりの型破りによるこのコレクションは、フランスでは「デカダンス的だ」と評された。

フランスから上を見上げればイギリス。ここではアバンギャルドでポリティカルな女王、ヴィヴィアン・ウエストウッドとその夫マルコム・マクラーレンがSex Pistolsをデビューさせ、パンクロックブームが蔓延していた。

はたまた遠くに目をやれば、トレンドに乗ることを嫌うアンチモードを増大させている日本がある。

1976年のJEAN PAUL GAULTIERに目をつけたのは、この2つの国だった。

特にゴルチエの可能性を見つめ、JEAN PAUL GAULTIERの朝陽を急進させたのが日本の大手アパレル・宝飾品会社、オンワード樫山だった。

1978年にオンワード樫山が出資。ジャン=ポール・ゴルチエはJEAN PAUL GAULTIER社を設立、オンワード樫山とスティリスト契約を締結して独立を果たした。

1981年に両者はライセンス契約を結び、同じ方向を見るようになる。

ダダイスト・デヴィッド・ボウイ

服、人種、ヒエラルキー、セクシャリティ、ジャンル、時間、宗教……

それらを切断し、融合させ、またそこに新しい世界や時代を創造するジャン=ポール・ゴルチエ。

神聖で、かつては誰も触れることのできなかったクラシックを弄ぶ彼によって再解釈された古典的な(現代的または先鋭的な)作品を意味する“Gaultiered”(ゴルチエード)という言葉がある。実際にパリ、ロンドン、ミラノ、ニューヨークのファッションレキシコンにはそれが登録されている。

JEAN PAUL GAULTIER社を設立した1978年、彼は、デヴィッド・ボウイがブライアン・イーノと共に創り上げた実験的アルバム『Low』とその姉妹作『Heroes』のツアーで初めてボウイを見た。

コンサートが始まると、純白のネオンのセットの中に、マレーネ・ディートリッヒのような姿のデヴィッド・ボウイが現れる。

丈の短い白いキャプテンジャケットに帽子を身につけたその様は、キャプテンではなく「男性を演じているマレーネ・ディートリッヒだった」と2013年、Out誌のインタビューでゴルチエは語っている。

絶対的なロックスター、デヴィッド・ボウイは、創造性、贅沢さ、常に変革し続けるファッションセンス、その魅力、エレガンス、そしてジェンダーに対する遊び心によって、ゴルチエにインスピレーションを与えた。

ジャン=ポール・ゴルチエがJEAN PAUL GAULTIERを通して見せる、あらゆる色、形、アイデンティティを持つ人々が祝福されるこの世界の中心では、“デヴィッド・ボウイ”という熱い内核が常に回転していた。

Like a Virgin / マドンナ

ファッション・ヴァージンの頃から下着の可能性に魅了され、信じていたゴルチエは、ピンクとオレンジのクラッシュベルベットを使った「Bombshell Breasts」ドレスを1984年の秋冬コレクションで発表。今ではすっかり代表作となった円錐形のシルエットを開発した。

この挑発的なプロポーションを初めて手にしたのは、あの頃のテディベアのナナだった。

その後、彼の円錐はマドンナの目に留まる。

欧米や日本を約4か月間かけてまわり、27都市で57公演を行った1990年のツアー「Blond Ambition Tour」で、マドンナはゴルチエにこのプロポーションを叶える衣装を依頼。

マドンナは、デヴィッド・ボウイでの仕事が評価されていたナイル・ロジャースをチーフプロデューサーとして迎えたアルバム『Like A Virgin』収録曲「Like A Virgin」のパフォーマンスで、ジャン=ポール・ゴルチエによるゴールドの円錐形ブラコルセットを着用した。

両性的で日常的なオートクチュールデビュー(非現実的)

JEAN PAUL GAULTIERは、早くも1984年にはニューヨークのBergdorf Goodman(バーグドルフ グッドマン)で販売され、その社長であるドーン・メロや、60年以上に渡ってHarper’s BazaarとVogueのファッションエディターを務めたポリー・アレン・メレンに賞賛されていた。

その後、初のプレタポルテコレクションから約20年の時を経て、1997年の春夏シーズンよりオートクチュールコレクション“Gaultier Paris”をスタートさせる。

他のデザイナーが“モード”を追求するこの時代、ただ独りトリクルアップやバナキュラーを信じていたゴルチエは、自身の原点回帰となるコレクションを発表して注目を集める。

アレッサンドロ・ミケーレの功績により、今でこそ女性観と男性観の境目は朧げになったが、アンドロジニーを再考し、ゴルチエが発表したユニセックスなこのクチュールは、当時最も新しい試みだと思われる。

年齢、人種、体格など多様なキャスティングを行い、ランウェイではモデルと“本物の”人々が混在していた。

またゴルチエはデニム、シャワーシューズ、タグやロゴなどといった、オートクチュールというよりもプレタポルテやレディトゥウェア、リアルクローズにより近いイメージを見せた。

そのクチュールシーズンでは、ジョン・ガリアーノがChristian Diorで、アレキサンダー・マックイーンがGIVENCHYで非常にドレッシーな美学をそれぞれデビューさせていたため、JEAN PAUL GAULTIERのオートクチュールはそれらと対照的なアプローチで大きなインパクトを与える。

Let’s Dance

1889年に創設されたフランスはパリ・カルチェラタンのキャバレー、Le Paradis Latin(パラディ・ラタン)にて発表されたJEAN PAUL GAULTIER 2014年 春夏コレクション。

BBCワールドワイドにて放映されているインターナショナルテレビ番組、Dancing with the Stars(ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ)のように、ロッシ・デ・パルマ率いる審査員団がステージ中央に配置され、モデルたちが跳ねたり踊ったりするのを評価する、という演出だった。

舞台や映画で活躍する豪華なゲストにはもちろん、キャットウォークを端から端まで歩く能力以外の個性をモデルに披露させる機会となった。

TERIYAKI BOYZの「Tokyo Drift」が流れる中、赤いトラックスーツで登場したリウ・ウェンを見て、ロッシ・デ・パルマが“すごい”と書かれたプラカードを挙げる。(ちょうどRYO-Zの「Let’s go 熱望ズヒル ギロッポンラボから エスコート」『え~ すご~い!』のとこ)

黒いスパンコールの煌びやかな衣装を着たロッシ・デ・パルマも演出に加わり、最後にはゴルチエ自身もダンスを披露するという、キャバレーの、本物のダンスパーティーのように華やかなショーとなった。

夢のような現実と、現実になった夢

1862年にフランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニーによって創設されたパリのThéâtre du Châtelet(シャトレ座)。

台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術/衣装:パブロ・ピカソといった芸術家らによって生み出されたセルゲイ・ディアギレフのバレエ『Parade』(パラード)が初披露され、伝説的バレエダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーが、モダンダンスの元祖とも言われる『L’Après-midi d’un faune』(牧神の午後)を発表したこの劇場で、JEAN PAUL GAULTIER 2020年 春夏オートクチュールコレクションはお披露目される。

オーケストラシートには、ゴルチエの元インターンでLouis Vuittonアーティスティック・ディレクターのニコラ・ゲスキエール、Viktor & Rolfのヴィクター&ロルフ、イザベル・マラン、クリスチャン・ルブタン、ピエール・カルダンとともにスペースエイジ・ムーブメントを率いたPaco Rabanneのジュリアン・ドセナ、クリスチャン・ラクロワ、ドリス・ヴァン・ノッテンなどの招待客。そしてゴルチエを最も尊敬する最初のアシスタントであり、常に寡黙なマルタン・マルジェラ。

ゴルチエは、彼らデザイナー仲間に200を超えるルックを披露した。

アイコニックな青と白のストライプを着たジジ・ハディッドと、有名なコーンシェイプのブラジャー、そしてタトゥーをあしらったセカンドスキンのドレスから肌を透かすベラ・ハディッド。髪を捻ってスペインのマンティラを連想させるロッシ・デ・パルマ、ベアトリス・ダルは火のついた煙草をランウェイに投げる。

歌川国貞の「歌舞伎十八番の内勧進帳」や、豊原国周の歌舞伎絵もしくは喜多川歌麿の美人画を思わせる浮世絵のようなモチーフを描いたドレスも見られた。

サルバドール・ダリが18年もの間愛したアマンダ・リアは2人の男の子に抱かれて階段を降り、キディ・スマイルはシルクの着物を揺らしながらしたたかに現れた。

親友のボーイ・ジョージがエイミー・ワインハウスの「Back to Black」を熱唱し、少年の頃から幾度となく着てきた愛しいマリニエールと鮮やかなブルーのオーバーオールで登場したゴルチエ。

そこにいる全員が笑い、泣き、スタンディングオベーションはいつまでも続いた。

このショーがジャン=ポール・ゴルチエのグランドフィナーレとなり、ファッションの世界を夢見ていた少年は、友人たちの祝福の中で約50年にわたる現実に別れを告げた。

序開を託される日本、Gaultier Paris by sacai

同年より、シーズン毎にゴルチエが尊敬するデザイナーに制作を任せるという形で、JEAN PAUL GAULTIERのオートクチュールコレクションは再始動する。

その最初のデザイナーに抜擢されたのが日本、sacaiの阿部千登勢だった。

世界で最も人気のあるタトゥーアーティストの一人、ドクター・ウーによるセカンドスキンに、マドンナを思い出すコーンブラ。1994-95年 秋冬コレクションでビョークが着用したブルゾン。sacaiの定番アイテムであるボンバージャケットにはコルセットが融合された。

ゴルチエが現代のクリエーションに不可欠だと考えるアップサイクルは、余剰生地を本来とは別の作品として蘇らせるsacaiのZantan(残反)というプロジェクトと通じている。ヴィンテージジーンズはコートに生まれ変わっていた。

ゴルチエと阿部千登勢は、創作に対する考え方の多くが共通している。「アンファン・テリブルもそのひとつです。だから、彼の美的感覚を理解することは、私にとって難しいことではありませんでした。」と阿部千登勢は語っている。(VOGUE 2021年7月13日)

東京を訪れた際にゴルチエが見た、阿部千登勢の働き方やsacaiの美しい作品の記憶は、この“Gaultier Paris by sacai”とともに永遠となった。

全てのエンターテイナーと共に創り上げ、全てのエンターテイナーに贈る ファッション・フリーク・ショー Fashion Freak Show

さて2023年。今もなお色褪せることのないパリを飾った200点以上の作品、マドンナ「Like A Virgin」のためゴールドの円錐、デヴィッド・ボウイの「Let’s Dance」、恋人との思い出のクラブやストリート、魅惑のキャバレー、海とブルトンストライプ、日常、そのすぐ側で待つ非日常。

そしていつも遠く、いつもゴルチエの近くに在る日本で、ランウェイミュージカル『Fashion Freak Show ファッション・フリーク・ショー』が開催される。

アンファン・テリブルの物語に招待された黄金の国の人々。私たちは彼の物語に自分の夢を見て、いつの日かそれを現実へと変えるだろう。

“I don’t like dreams or reality. I like when dreams become reality because that is my life. ”

私は夢も現実も好きではない。夢が現実になるのが好きだ。それが私の人生だから。

— Jean-Paul GAULTIER

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