川久保玲 × Adrian Joffe:何にも捉われない女と、女を世界に繋ぐ男(Endless Romances long for High-End Clothes by kozukario)

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川久保玲 × Adrian Joffe:何にも捉われない女と、女を世界に繋ぐ男(Endless Romances long for High-End Clothes by kozukario)

リック・オウエンス(Rick Owens)が、憧れの川久保玲と中華料理店Davé(ダベ)で時空を共有した2008年、その秋のCOMME des GARÇONSのコレクションは衝撃的だった。

それは“例の”黒の衝撃ではなかった。

ショッキングな赤と綿菓子のようなピンク色のチュール、隠されていないヘアネット、レオパード柄の帽子、格子状に切り刻まれた服の隙間をつなぐサテンのゴムとガーターストラップ。趣味の悪いルックばかり。

安っぽい唇とハートのモチーフが印象的だった。唇の形をして開いている大きな穴の輪郭にはフリルが付けられ、ハートは細かく同時に粗い刺繍で表現されている。

黒のサテンのブラトップに、ベルベットとシフォンのネグリジェドレス。chiffon(シフォン。フランス語)の原義は“ボロ雑巾”だ。赤い水玉模様のダンスドレス、黒のテープに縛られた純白のバレエドレス。

不易流行≒川久保玲とCOMME des GARÇONS

会場では、この3年後の2011年7月23日、急性アルコール中毒でこの世を去るエイミー・ワインハウスの『Back to Black』(2006) が流れていた。

2008年『Back to Black』でエイミー・ワインハウスはグラミー賞主要4部門を含む計6部門にノミネート。最優秀新人賞を始めとする5部門を受賞した。

川久保玲は、薬物の過剰摂取によるオーバードースを繰り返し、アルコールに溺れた彼女のファンだった。

エイミーは、2007年にアメリカのフロリダで、元音楽プロデューサーのブレイク・フィールダー・シビルと結婚した。エイミーの父によると、ブレイクと出会うまでのエイミーは薬物から距離を置き、クリーンな生活を心がけていたそうだ。

彼と付き合うようになってから薬物にハマり、どん底に堕ちてしまったエイミー・ワインハウス。

そのエイミー・ワインハウスのファンである川久保玲は、ドラッグをやらないし、アルコールで警察のお世話になったこともない。

しかし、このコレクションについて彼女は、 “There’s value in bad taste, too. This is Comme des Garçons bad taste.” と話した。

事細かに言えば、川久保玲は「悪趣味にも価値がある。これはCOMME des GARÇONSのバッド・テイストです」と夫のエイドリアン・ジョフィ(Adrian Joffe)に話した。

これを世界共通の言葉に訳し、披露した人物こそこの夫、エイドリアン・ジョフィである。つまり川久保玲の言葉は、ジョフィの言葉でもあると言える。川久保玲は、殆どの言葉をジョフィの口から発する。

2008年のCOMME des GARÇONSは間違いなくエイミー・ワインハウスに影響を受けていたが、2008年の川久保玲の人生はそうではなかった。

川久保玲は紛れもなく川久保玲そのものであり、彼女の人生が誰かに影響を受けることはない。

彼女の隣にはいつも通り、寛容で温厚、その成りの全てが僧侶のような夫がいる。どうやら川久保玲は男の趣味は、良いようだ。

結婚とAdrian Joffeが川久保玲に与えた自由

川久保玲は1970年代に「夫の考えに左右されない」女性のための服を作ることから始めたという。

そしてその約20年後である1992年7月4日、彼女は、1987年にCOMME des GARÇONSに入社し、現在のCOMME des GARÇONS InternationalのCEOであるエイドリアン・ジョフィと結婚する。

結婚式当日、花嫁は、黒のスカートに真っ白なシャツを着ていた。

幸せな花嫁はその結婚式の直後、ELLE誌のインタビュアーに「私のライフスタイルは、結婚という形式に影響されるべきではない」と語った。

結婚といえば2005年3月、パリにて披露されたCOMME des GARÇONS Fall 2005 Ready-to-Wearのコレクションは「Broken Bride」(壊れた花嫁)と呼ばれている。

この時COMME des GARÇONSの服は「Broken Bride」こそが女性のファッションとビューティの両美学における出発点であり、永遠のインスピレーションであることを流布した。

高教会派のオルガン音楽に合わせて花嫁が入場し、ジプシー、ユダヤ、メキシコ、カリブ等における祝典の音が入り混じっていた。

ウェディングロードを歩く花嫁たちは花冠を着けヴェールを靡かせていた。カラフルなものや高々としたもの、また、黒の中に艶やかな花を咲かせることで不吉な雰囲気を醸し出しているもの。風に吹かれ揺れる多彩なそれらは、花嫁たちの心の窓を開け放つ。

結婚には様々な形がある。一般的に、結婚は保守的であり”縛られる”ことを連想させるが、このコレクションはリベラルで、結婚の本質がどのようなものであるかを教示した。

室町時代の1562年頃、北条幻庵によって書かれた『北条幻庵覚書』という覚書がある。世田谷城主吉良氏朝に嫁ぐ、北条氏康の娘・鶴松院に幻庵が書き与えたこれには、婚礼の式から家臣への心配り、日常生活の嗜みなど多岐に渡って記されており「奥さん」の由来となる「奥方」という言葉についても書き及ばれている。

当時「奥方」は「奥の方の部屋」を表す言葉として使われていた。身分の高い男性は配偶者の女性を屋敷の奥の方の部屋、奥方に住まわせていた。

COMME des GARÇONS Fall 2005 Ready-to-Wearのランウェイでは、その「奥さん」が不特定多数の前を歩いたのである。

女性はその人生において、ヴェールを靡かせてもいいし、脱いでもいい。純白じゃなくてもいい。

「Broken Bride」はマリッジブルーのような悲観的なものではない。

COMME des GARÇONSの“誘致”という波及効果

1942年に東京で生まれた川久保玲は、1969年にアパレルブランドCOMME des GARÇONSを立ち上げた。

1981年にパリでデビューした彼女の衝撃は、今もなお力強く響き渡っている。

リック・オウエンスやマルタン・マルジェラ、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクなど現代における重要なデザイナーの誰もが彼女の信奉者であり、彼女に影響を受けたと公言している。ファッションジャーナリストのスージー・メンケス(Suzy Menkes)は、川久保玲を「20世紀最後の数十年から現在までの偉大なファッション勢力の一人」と評した。

そしてその衝撃波はファッション界のみに留まらないほどであった。

バッド・テイスト文化に大きな影響を与えた映画監督で脚本家のジョン・ウォーターズ(John Waters)は、川久保玲の熱烈な信者として最も有名である。2010年に刊行された自伝『Role Models』においては、その全章をCOMME des GARÇONSと教祖に捧げた。彼が初めてCOMME des GARÇONSを体験したのは、1983年だったそうだ。

ウォーターズはその初体験について「突然、私はヘロインを初めて服用した薬物中毒者のような気持ちになった」「COMME des GARÇONSの中毒になりかけていた私は、川久保玲が私の売人になってくれるかもしれないと思った」と2017年、032cのインタビューで話している。

そうして多くの人を巻き添えにした“黒の衝撃”は世界に波及し、至る所で“カラス族”を生み出した。一種の社会現象ですらあった。

最近では2017年。

ニューヨークのメトロポリタン美術館にて開催された展覧会において、主催のCostume Instituteは「Rei Kawakubo / COMME des GARÇONS: Art of the In-Between」をテーマとして掲げた。

展覧会開幕前のMet Galaにて歌手のリアーナが大胆に着用したことで話題を集めた。

フラストレーションをも制すモード界の女帝、川久保玲

川久保玲はキャリアの初期から、自分を知る唯一の方法は「私の服を通す」他ないと主張してきた。

ジョフィを初めとする従業員たちは、彼女の服を通して、彼女の才能や“饒舌な”態度を知る。彼らは、川久保玲の思想を形にし、それを纏うことで彼女に対する我慢を覚え、また、畏敬の念を抱いて彼女に接している。

賞賛と敬意が入り組む中で、川久保玲は、自身のパターニング・スタジオから生み出されるどのような衣服にも劣らない、緻密で複雑なビジネスを黙々と指揮している。

TheGuardian.comが川久保玲に対して挑んだインタビューでももちろん、ジョフィが架け橋、通訳であった。

そこでジョフィは「コレクションだけでなく、ショップのデザインも含めて、彼女の仕事は止まらないんですよ」と自身の言葉で話す。

そしてインタビュアーが川久保玲に投げかけた「この仕事のどのような点が楽しいですか?」という質問を聞いた途端、通訳が首を横に振った。更に「仕事に楽しみはありません」「彼女は、仕事が楽しいと言う人は、仕事に真剣に取り組んでいないと思っているんだ。彼女曰く、創造のための期待値を上げる唯一の方法は、満足しないことです」と続けて答えた。

その時のジョフィは単なる通訳者ではなかったはずだ。

彼は川久保玲のビジネスパートナーであり、夫であり、理解者であった。

川久保玲は、過去に、自分自身を「ビジネスウーマン」という一言で定義したことがある。

Tシャツやスニーカーを販売するCDGはロゴに拘る現代の消費者向けに展開されており、シャツブランドであるCOMME des GARÇONS SHIRTはバッグや靴を徐々に展開することで売上の極大化を図っている。

イラストレーターのフィリップ・パゴウスキーが「デザインしない」というコンセプトのもとでデザインした鋭い眼を持つ、生きたハートがトレードマークのPlay COMME des GARÇONSには、老若男女多くの人が袖を通した経験があるだろう。

川久保玲は、既に確立されたCOMME des GARÇONSというブランドネームを用い、多様なニーズに対して個別に新たなラインを展開することで利益向上の高効率化に成功している。

“モード界の皇帝”と呼ばれるカール・ラガーフェルドも「ファッションはビジネスであって芸術ではない」という言葉を遺している。 (WWD JAPAN.com Vol.101 1983年1月31日)

「ファッションには現在や未来が含まれていることが必要。ドレスは生きている女性が着る物で、美術館に展示されるものではない」

ファッションをビジネスに利用し、そして着飾る生きた川久保玲は、カール・ラガーフェルドの言葉を具現化する“モード界の女帝”なのかもしれない。

美しきカオス=DOVER STREET MARKET:放射状の信頼関係の賜物

2004年、川久保玲とエイドリアン・ジョフィはDOVER STREET MARKET(以下通称DSM)を共同創立した。

DSMの1号店は、世界で最も煌めくロンドンの高級住宅街メイフェアのドーバーストリート沿いに創られた。コンクリート打ちっぱなしの床、アーティストとのコラボレーションによるポップアップ、ゲリライベントなど、DSMのその展開法は創立当初から業界の10年先を行っていた。

2016年3月には、1号店をロンドン中心部のヘイマーケットにある旧Burberry本社に移転。

これにより売り場面積は以前の3倍となる3,000平方メートルを超え、幻覚かと思うほどの歪んだ広さを誇る。

このDSMでは、古き良きビッグメゾンから新鋭若手ブランドまで、年齢も性別も、ブランドのテイストも千差万別、お互いが混ざり合い影響し合うことで、コンセプト通りの「Beautiful Chaos」(美しいカオス)な空間を“精製”している。まるで千紫万紅の花壇のようだ。

セレクトされたブランドは各々の占有スペースを持ち、独自のディスプレイによって展示をする。

ブランド自身が行うディスプレイについて、川久保玲とエイドリアン・ジョフィは一貫して一切ディレクションしないというのだ。

DSMロンドンに出店しているJ.W.Andersonのジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)は「デザイナー自身が、商品をどう売るか考えるべきだと思う。ここでは服やバッグなどの商品だけでなく、ブランドの世界観そのものを表現できる」と語る。

自らが選定し取り扱うブランドを放任する夫婦のその態度は、ネグレクトではなく、我が子を信じ、その健やかな成長を見守る両親の姿と相違ない。

セレクト業界で圧倒的な存在感を誇るようになったDSMの利益率の高さはラグジュアリー・ブランド並み。現在、ロンドン、東京、ニューヨーク、北京、シンガポール、ロサンゼルスにて6店舗展開されているDSMは、川久保玲が真のビジネス・ビジョナリーであることを明示にする。

Adrian Joffeによって音と成り形を見せ色彩を帯びるAdrian Joffeが川久保玲の言葉

巨大なCOMME des GARÇONS帝国を統治する女帝であるにも関わらず、後世にも、ファッション史にも興味がない川久保玲。

しかし彼女は、自分の遺産が何であるかを考えたことがない。後世のことなど考えたことすらないし、信じてもいない。

ただ、川久保玲の最大の遺産となるであろうものについて、TheGuardian.comのインタビューの続きと共に、しがない一帝国民として私は綴りたい。

川久保玲がエイドリアン・ジョフィに向かって日本語で、「自分の遺産が何であるかを考えたことがない」と囁いた。

するとジョフィは、彼女に向かって静かな英語で、「みんな考えているよ。あなただけが考えていないのです。デザイナーが財団を作るのは、歴史や遺産を気にするから。こんなことを考えているのは、あなただけなんだよ」と返した。

川久保玲はジョフィのそれよりももっと静かに、彼に答える。

そして夫はため息混じりに、インタビュアーに向かってこう言う。

「彼女は、自分がもうここにいなくなったら、何もなくなっても構わないと言っています」 

妻はといえば、インタビュアーに向かって微笑みかけていた。

想像するだけでシニカルな彼女のその微笑みを、純粋に零れたアイロニカルなものだと、夫のみが感じたに違いない。

川久保玲の私財は、COMME des GARÇONSとこの夫、エイドリアン・ジョフィではないだろうか。

いずれ川久保玲を失うこの世界は、同時にCOMME des GARÇONSをも失うことになるかもしれない。

しかしこの世界に必ず遺るものがある。

それは、COMME des GARÇONSの、あるいは川久保玲の言葉。そしてそれはエイドリアン・ジョフィの言葉でもある。

何にも捉われない川久保玲を、この世界に繋ぎ続けるであろうたったひとりの人物。

彼女の夫、エイドリアン・ジョフィこそがそのひとりだと私は思う。

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