パリのあしあと「あの夏の子供たち」
前回、動くことは生きること、というタイトルで紹介したミア・ハンセン=ラヴ監督の「あの夏の子どもたち」。映画の後半では父親であるグレゴワールの自死により、残された母親一人と娘三人が喪失に暮れながらも一歩一歩それぞれの歩幅で動きはじめる様子が描かれていく。今回は父の死後とくに印象的な姿を見せる長女・クレマンスの歩みと、残された家族がパリを離れるきっかけになる出来事について記していきます。
父の足跡をたどる
映画館の暗闇のなか、父の会社ムーン・フィルムが作った映画を妹たちと見る長女のクレマンス。
父の映画、父の記事、父の仕事仲間、そして父が歩いていたであろうパリの街を、一歩一歩たしかめるように歩く姿が微かだが確かな前身として描かれる。しかしその過程で不都合な真実を聞かされる。父には隠し子がいたのだ。動くこと、動かなくなることの作用を一貫して信頼し演出する監督ミア・ハンセン=ラヴは、隠し子の母と父の手紙を読んだクレマンスが混乱と失望と共にじっと身を固めていく姿を見つめる。
人の死によってその人のことをより広く深く知る経験は、誰しも経験があるだろう。
人を深く理解するには、その人の良い面のみを見るのではなく、脆く弱い面を知り、受け入れ許していく過程が必要である。クレマンスもまた知ることのなかった父の脆く弱い姿を知りショックを受けるが、自分なりの方法で父を、一人の他者として理解していく過程が丹念に描きだされていく。
いつしか父が期待をしていた新人男性監督と親しくなるクレマンス、彼と夜の時間を過ごし父が作るはずだった脚本に対して「幸せな結末にして!」と置き手紙を残す。
部屋をあとにしたクレマンスが立ち寄るカフェでのひとときの美しさを見てほしい。
新しい朝を迎えて、いつもみてきた風景が途端にまぶしく新鮮にみえてくるあの感情がそっくり描かれている。
家を追い出される家族
ここまで極めて現実的で偶然に頼ることのない展開が続いた本作だが、終盤のとあるシーンで妙に神秘的な出来事が起こる。会社の存続を諦めたシルヴィアは故郷イタリアに家族で帰ることを友人のセルジュに相談している。生まれ育ったパリを離れることに強く抵抗する娘たち、そのときバチン!という音と共に暗闇、街が停電したのだ。幼い娘たちは突然の暗闇に興奮を隠せない様子。セルジュの提案でローソクの灯を頼りに真っ暗な街を見るために外に出ていく。わきゃわきゃと騒ぎながら街におりた家族たちもつかのま、電気が復活する。
いかがだろう?一見なんの変哲もないシーンに見えるが、ひとつ違和感を覚える出来事が「停電」だ。
スイッチを押せば暗闇をつくれる「停電」はとても簡単なアクシデントである、あの聡明なミア・ハンセン=ラヴが単なるアクシデントとして停電を使うだろうか?
そこには何らかの必然性があるはずに違いないとシーンを振り返ってみると、停電は次女・ヴァランティーヌが「パパの近くにいたい」という言葉の直後におきる。なんという予定調和だろうか、まるでひっそりと食卓にいたグレゴワールの魂が、家族を家(パリ)から追い出す為に街を暗闇にしたようだ。
考えすぎか、いやそうに違いにない。
あれだけ活発に仕事に家族に動き回っていたグレゴワールだから、もし生きてそこにいたら、妻と子どもたちが新しい人生に向けて動きはじめることを強く後押ししただろうから。
ミア・ハンセン=ラブの手によって、既に亡くなってしまった人物の感情がありありとそこに見えてくる。
最後に、妻であり母であるシルヴィアの涙について書きたい。
夫の死後、残された会社の存続に奔走しつつ、娘たちの前で気丈に母として振る舞っていたシルヴィア。
そんなシルヴィアが一人ひそかに一粒の涙を指でぬぐう瞬間がある。
誰もが見過ごしてしまう小さく繊細な瞬間、そこに気づきカメラを向けるミア・ハンセン=ラブの他者へのまなざし。
この映画で最も美しい瞬間である、ぜひご自身の目で見ていただきたい。