ブランドとしてのJIL SANDERとデザイナー、ジル・サンダーの歩み
マーク・ジェイコブス時代のLouis Vuittonにニコラ・ゲスキエールのBALENCIAGA、ラフ・シモンズ率いるDIORと、万里一空なビッグメゾン優等生のルーシー・メイヤー。
ジョージタウン大学とオックスフォード大学でファイナンスに国際ビジネスと経営学、FIT(Fashion Institute of Technology)でファッションを学び、Supremeのヘッドデザイナーを経て、アルノー・ファーと共にOAMCを手掛けるアポロン的かつディオニソス的なルーク・メイヤー。
2017年4月から2023年現在まで、このデザイナーデュオ、ルーシー&ルーク・メイヤー夫妻が共同クリエイティブディレクターを勤めるブランドこそがJIL SANDERである。
世界のファッショントレンドの核となるパリコレクションに対して、前週のミラノコレクションは、斬新なデザインと同時に素材や着心地を重視した“本物志向”のコレクションが多く展開される。
JIL SANDERはこの開催地、イタリア・ミラノに拠点を置いており、その“本物志向”はドイツ・自由ハンザ都市ハンブルクに始まった。
ブランド発祥の地、ドイツには、ギリシャ神話に由来するこんな諺がある。
Ohne Fleiß kein Preis (勤勉なしに、賞はない)
ドイツ人は勤勉で規律正しく、仕事においては質を重視する。またYes/Noを論理的かつ明確に伝える傾向があるという。
長きにわたり「ドイツ人と日本人は似ている」と言われてきたが、行間を読み・空気を読み・視線を読む、所謂“察しの文化=ハイコンテクスト文化”は日本にあり、ドイツにそれがあるかと問われたら答えは“No”だ。
そしてハンブルクは、中世において封建制度からの脱却を叶えた自由都市である。
かつて芸術家の活躍の場が少なかったことにより、独立性の高い熟練した職人技が求められたハンブルク。無骨さはそこに構築される文化にも顕著に現れる。
ハンブルク出身の芸術家といえば、J.S.バッハ、ベートーヴェンと共に“ドイツ三大B”と称されるヨハネス・ブラームス、ファッション界を牽引し続ける“モード界の皇帝”カール・ラガーフェルド。
そしてJIL SANDERの創始者である“鉄の女”ことハイデマリー・イリーネ・サンダー、通称ジル・サンダー。
勤勉なしに賞はなく、また神ですらも功績の前に汗をかくのだ。
ファッションにおける“本物”とはなにか
ドイツにおける繊維工業の中心地クレーフェルトや世界ランクTOP15に入るカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でテキスタイルとデザインを学んだ後、ジル・サンダーはニューヨークに渡った。
若きジル・サンダーはライター/エディターとしてファッション業界でのキャリアをスタートする。21歳の時、父親が52歳で急死したため故郷ハンブルクに戻り1968年、25歳の若さにして自身のファッションハウス「JIL SANDER」を設立。
初めての作品は、母親のミシンで、世界屈指の総合化学企業 Hoechst(ヘキスト)のトレヴィラ生地を加工した正真正銘の“本物”だった。
卓越した縫製技術と細々たるディティールによる機能性、そして素材にかける贅沢さとの両立を実現した。
それからというもの、ジル・サンダーは女性を不器用に見せたり、滑稽に見せたりするような服は作らず、生きた立体的な体を尊重しながら内面の豊かさや美しさを表現する”Design Without Decoration(装飾なきデザイン)”を追求することとなる。
1975年には、Hôtel Plaza Athénée(プラザ・アテネ)にてパリコレクションデビュー。
しかし常にトレンドの発信地であり、当時クロード・モンタナを筆頭にカラフルで派手なデザインがムーブメントとなっていたパリはジル・サンダーの肌に合わず、1980年に撤退。
1987年からミラノコレクションに参加する。このコレクションで成功を収め、1989年にはドイツ経済を牽引する金融都市フランクフルトで株式を上場させた。
男性がファッションを好みメイクをすること、女性が社会的地位を獲得すること
1997年秋冬よりメンズウェアを発表。
“本物の”パーソナリティーやアイデンティティー、知性、カリスマ性といった魅力を引き立たせる衣服をメンズにも提供した。
ジル・サンダーは子供の頃から紳士服に興味があった。
というのも、彼女には紳士服の生地、カット、色、その全てが薄っぺらく、気まぐれなものに見えていた。
そして敬虔なものではなく、自信に満ち溢れ、クールで洗練された“女性らしさ”を好む彼女のメンズウェアには、アンドロジナス的なエッジが効いている。
このコレクションによりジル・サンダーは、1976年のセカンドシーズンにて“個性を考慮しない構造”が厳格に定められていたスーツを解体/再解釈したジョルジオ・アルマーニに因み「フランクフルトのアルマーニ」と讃えられた。
人々が披露する個人的なスタイリングは、仕事上の成功や自律的なライフスタイルに付随する。
そして人生には、セクシャリティーを超えた態度が必要な機会もある。
対立するビジネスとクリエイティブ:PRADAとジル・サンダー
ブランドの盛時である1999年。
PRADAグループがポスト グランジ ラグジュアリーを定義したHELMUT LANGやイギリス紳士靴の老舗ブランドChurch’sと共に、突如JIL SANDERを買収する。
75%の株式が購入されたのだ。
それでもジル・サンダーはクリエイティブデザイナーを続けた。
しかし買収から半年後の2000年1月、“プラダを着たホワイトナイト”こと最高経営責任者のパトリツィオ・ベルテッリと製品の“質”と価格をめぐり対立してしまう。
ジル・サンダーは、2003年5月に競業避止義務条項が失効した後、ヘッドデザイナー兼パートナーとして同社に復帰するという決断を下し、自身の名前を冠した事業から潔く去っていった。
対するビジネスマン、パトリツィオ・ベルテッリはジル・サンダーの退社について「JIL SANDERのような強力なブランドは、デザイナーの名前に頼る必要はない」という大胆なコメントを残した。
2003年、“ジル・サンダー”はJIL SANDERに一時復帰したが、18ヶ月後の2004年11月にPRADAグループとの仕事を永久に断ち切るため再び職を辞する。
ベルテッリとの間に乗り越えられない相違が生じたとも、プラダの公式声明にあるように「パトリツィオ・ベルテッリとジル・サンダーによる関与終了の決定は友好的であった」とも言われる引退であり、冷戦の終結でもあった。
傭兵デザイナー、ラフ・シモンズの功績
ジル・サンダーが去ってから約1年半後の2005年7月1日。
PRADAグループはクリエイティブディレクターとしてラフ・シモンズを起用する。
ラフ・シモンズの最初のコレクションは2006年のミラノファッションウィークで披露され、イギリス・ロンドンのEvening StandardとアメリカのLos Angeles Times、そしてThe New York Timesに取り上げられるなど地球規模での好評を博した。
ラフ・シモンズは文字通りの“傭兵デザイナー”だった。
このコレクションにも見て取れるように、ラフ・シモンズは自身が持つビジョンの力と独創性によって、JIL SANDERの商業的可能性を大きく振るうこととなる。
JIL SANDERらしく白、黒および淡いグレーを基調として、レザーパンツにトリプルプリーツを施し、空に浮かぶ雲のような巨大な白いコート、ゆったりと膨らむスーツパンツにタイトなスラックスなどを発表。
ラフ・シモンズは、“余計なもの”がないようにデザインを削ぎ落としながらも、ブランドの審美性であるミニマリズムを緩やかにすることで消費者行動との接点を調節したのだ。
2011年には低価格帯の商品を展開するエクステンションライン、JIL SANDER NAVYのデザインを手掛けるなど輝かしい功績を残した。就任から6年半を費やして2012年2月27日、ラフ・シモンズはJIL SANDERのクリエイティブデザイナーを退任する。
袂を分かつ2つのJIL SANDER
2014年以降、JIL SANDERはPRADAグループの手を離れ、東京都中央区に本社を置く株式会社オンワードホールディングスに買収された。
その後、2023年現在はMaison Margiela、Marni、DIESELなどを展開するOTBグループが全株式を所有している。ビジネスに翻弄される自身の名を冠したブランドを横目に、ジル・サンダーは孤高を恐れなかった。
2004年にデザインをやめた彼女は、日本におけるファストファッションの代表的存在、UNIQLOとのデザインコンサルティングを契約し、+Jコレクションを展開する。
ジル・サンダーにとってUNIQLOでの仕事はとても自然的であり、JIL SANDERとの別離以降も「頭の中でデザイン」していたのかもしれないと言及している。(2010年6月 The New York Times – A Q-and-A With Jil Sander)
そして立場を失ってから+Jに舞い降りるまで、彼女とファッションとの接点は絶たれていたわけではない。ジル・サンダーは、生まれながらにして持つケイパビリティと、生涯をかけて培ってきたデザイナーの目で世界を見続けていた。
まだ行ったことのない国や、ゆっくり観光できなかった国への旅に自由な時間を使い、庭に足を踏み入れた。一方で「ファッションの世界に戻りたい」という思いの火は消さず、鉄を打つように交渉術を学び、自分の手によってデザインされる未来の選択肢を吟味していた。
好転波動と信仰
+Jの展開後、UNIQLOはハンブルクの市役所の隣に洗練されたショップを建てた。
これはジル・サンダーへの贈り物でもあり、今や+Jが文化の壁を乗り越え、人々の距離を縮め、進化し続けるリンガ・フランカであることを象徴する。
そして2020年以降、人類はパンデミックをコントロールしながら、静かな楽観主義と躍動感への欲求を抱き続けている。
このポジティブな波動で世界を満たし、未来に対応するためには新鮮なエネルギーが必要だろう。毎日新しく自分を作り直す時間やその手段、忍耐力を持てない全ての人に向けて、ジル・サンダーはスマートなユニフォームを、手頃な価格でグローバル化した。
そしてジル・サンダーは、自身が「ポジティブでいなければならない」と信じている。この信念は、寛容の精神をもって世界に当たり続け、彼女にミシンを与えた母の教えである。
「犬は私を噛まない、噛まないと信じれば」と母はよく彼女に言い聞かせていた。
しかし、迷いや失敗も、きっと必要な人生の要素だろう。ただし、同じ失敗を二度としなければ。
JIL SANDER website