メロドラマとしての時代劇、あるいは情念の手捌き

メロドラマとしての時代劇、あるいは情念の手捌き

さて、2022年が明けた。

ここ2年ほど、映画をはじめとする芸術文化を取り巻く環境は劇的に変化してきた。しかし、つくり手はしぶとくその手を止めず、今もメジャー、インディーズ問わず多くの作品がつくられ続けている。

今回は時代劇だ。時代劇もまた戦争に見舞われながらも生きながらえ、数々の職人たちを輩出してきたと言える。災厄にも負けず、表現者たちは表現を続けてきた、その姿勢に勇気づけられる。

読み進めていくと、“時代劇”というにはあまりにも大雑把な括りだなと感じてしまうが、改めて日本古来の精神や奥ゆかしさ、とでも言うのか。独特の心意気が表現に込められている。日本の表現を考え直す感覚がとても心地いい。

もちろん、その理由なんて明確にしない。つくり手の執念や感覚が表現として成立したときに感じる鳥肌感。それを永岡監督は改めて教えてくれる。

彼の映画への情熱も凄まじい。フランスのヴァカンス映画に魅せられ、それを日本で撮った彼の演出感や視点は今回の記事で改めて感じることができた。

新春の、この季節にはとてもいいテーマですね。時代劇がくれる“新しい”気持ちを味わってみてはいかがでしょうか。

ところで、永岡監督の作品は2022年春には都内でご覧いただくことができる予定です。

BLAZEVY “The movie is total art” 編集担当 辻 卓馬


文:永岡俊幸

月夜に白刃が光り、バッタバッタと人相の悪い男たちが斬られ、一人の剣客が小気味よく音を立てて刀を鞘に納めるーー
よくある時代劇の殺陣シーンだ。
近年少なくなってきているように感じるが、日本人はそういったチャンバラ映画が好きだ。
アメリカとフランスで同時多発的に生まれた映画が19世紀末に日本に入ってきてから、数多くの時代劇が撮られた。大河内傳次郎や阪東妻三郎などの剣戟スターが次々と生まれ、銀幕を彩った。

そして、ここ最近、オンデマンド配信で大映や東映の時代劇を気軽に鑑賞できるようになった。水戸黄門や銭形平次などのテレビ時代劇よりも以前のものだ。
ここでは、1930〜40年代のハリウッド映画全盛期に比肩するように思われる1950〜60年代の日本映画全盛期の時代劇について、ただのチャンバラ映画としてではなく、“儚く麗しいメロドラマ”として捉え、書いてみたいと思う。

どちらにせよ通俗映画じゃないか、という声を無視して。

まずは、あまりに見事な職人的演出の手捌きを見せた3人の時代劇作家の作品から触れていく。

反逆児・伊藤大輔 「切られ与三郎」(1960年・大映)

伊藤大輔は1920年代から30年代のサイレント映画期に活躍した映画作家だ。
「忠次旅日記」(1927年)や「斬人斬馬剣」(1928年)、「御誂次郎吉格子」(1931年)といった傑作を撮り、その迫力のある殺陣や大胆な移動撮影、悲劇的な物語で「時代劇の父」と呼ばれ、当時の多くの若者たちを映画の道に進ませた。

しかし、映画が音声を持ちトーキー化してからは、自身の社会主義思想など当時の検閲的な問題もあり第一線を離れていった。戦後、阪東妻三郎や三國連太郎主演の現代劇「王将」シリーズ、大映で市川雷蔵主演の時代劇「弁天小僧」(1958年)、「切られ与三郎」(1960年)、東映で中村錦之助主演の「反逆児」(1961年)などを撮影する。

レールやドリーを使った移動撮影好きとして有名で、カメラは縦横無尽に動き回る。登場人物の激情に合わせたその移動撮影は迫力があって圧倒される。また戦後の大映では監督として作品を撮らなくても多くの脚本を後輩たちに提供した。

大抵の物語は、主従や親子関係など江戸時代の封建的な社会の中で追い詰められて抗い、死に向かっていく人物の悲劇だ。つまり、反逆児の物語。そこに男女の情念が絡み、より悲劇性を帯びていく。

ここでは、「切られ与三郎」を紹介する。

「切られ与三郎」は、歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛」の映画化で、大映京都撮影所で撮影された。商家の跡目相続問題で家を飛び出した蠟燭問屋の養子・与三郎(市川雷蔵)が旅先で出会った女たちと恋に落ち、そして女たちの幾多の裏切りに遭いながら追われる身まで身を落としていく物語だ。

撮影は溝口健二作品で知られる名手・宮川一夫。名高い大映京都撮影所の端正で美しいセットの中を市川雷蔵と淡路恵子、冨士眞奈美、中村玉緒といった女優たちが悲劇的な物語を生きる。ここでも主人公は反逆児だ。

与三郎は、江戸の商家の跡目として養子として迎えられたが、養父に実子が生まれたことで、放蕩して跡目の座を自ら捨て、江戸を出て旅に出る。

夜の宿場町の通りで流しの三味線弾きをして日銭を稼ぐ日々。そこで出会う淡路恵子演じる料亭の女将。出会いは、外から聴こえる与三郎の三味線の音を聴いた女将が与三郎を店に招いて座敷で三味線を弾かせるところで始まる。そして、そのままお互い惹かれて一夜を共にする。華麗な演出が情感を盛り上げる。

まず、女将の前で与三郎が三味線を弾き、途中で弦が切れる。しかし女将はその三味線に聴き惚れ、少し身の上話をし、一緒に酒を飲む。帰ろうとする与三郎を女将が止める。「女の口から言わせるのか」と言い、窓辺を行ったり来たりしながらお互いの顔に止まった蚊を半紙で取り合う。外では盆祭りの祭囃子。風が風鈴を揺らし、半紙を揺らし、部屋の中を照らす蝋燭の灯を揺らし、灯が消える。月明かりでシルエットになった二つの影が抱き合う――

動線、小道具、照明、外からの音、何より風を使って、唐突な展開に説得力を持たせてしまう技術は、もちろん役者やスタッフが素晴らしいのもあるが、サイレント期から名を馳せた伊藤大輔ならではと言える。

その後、女将の旦那に逢瀬がバレてしまい、捕まり、簀巻きにされて海に捨てられてしまう。なんとか一命を取り留め、中村玉緒演じる旅演劇の一座の娘と恋に落ち、裏切られ、今度は殺人の濡れ衣を着せられて追われる身になる。そして、江戸に戻り、冨士眞奈美演じる自分を慕う義妹を不幸な嫁入りから助け出し、最後の死の逃避行へ向かう。
話が進みにつれ、顔や身体に傷を負い、着物がボロボロになりながらも、堂々と振る舞う市川雷蔵の悲壮感に誰もが目を奪われるはずだ。伊藤大輔と職人たちはその度に華麗な手捌きで美しい悲劇を盛り上げた。かつての日本映画と撮影所のレベルの高さを見せつける傑作だ。

※「切られ与三郎」はまだ配信ないようですが、他の伊藤作品は何本か配信されています。

伊藤大輔脚本「眠狂四郎 無頼剣」Amazon Prime 配信

振付師・マキノ雅弘 「恋山彦」(1959年・東映)

マキノ雅弘は日本映画の父と呼ばれた牧野省三を父に持ち、1926年、その父が作ったマキノプロダクションで18歳の時に監督デビューする。以降50年近くに渡って、所謂プログラムピクチャーの職人監督として活動し、260本以上の監督作を遺した。

その作品群はほぼ時代劇で、戦前はマキノ正博の名で活動し、日活で阪東妻三郎が画面中を跳びまわる「血煙高田の馬場」(1937年)、軽妙なミュージカルテイストのオペレッタ時代劇「鴛鴦歌合戦」(1939年)、東宝で風変わりなミステリー時代劇「昨日消えた男」(1941年)、迫り来る阿波踊りの群衆が圧倒的な「阿波の踊子」(1941年)などを撮影する。戦後は伝説的な「次郎長三国志」9部作(1952年~1954年)などを撮り、以降は東映で数々の時代劇、任侠映画の傑作を遺した。

レオス・カラックスが「成瀬の女優に会わせろ」と来日時に面会を切望して駄々をこねたという大女優・高峰秀子が「マキノさんの演出は踊りの振付のようだった」と自伝の中で振り返っている。マキノは元々役者もしていたため、役者に芝居をつける際は、まずは自らが動いて見せたという。実際何本もミュージカル調の作品もある。

今回紹介する作品はまさに振付師の本領が出ている一作。

ここで紹介する「恋山彦」(1959年)は、現在も太秦映画村で知られる東映京都撮影所で撮影された作品で、戦前のマキノ自作のセルフリメイクである。原作は「宮本武蔵」や「三国志」で知られる吉川英治の小説。

舞台は将軍綱吉の時代、信州伊那の奥地にある平家の末裔たちの隠れ里に、江戸から幕府の役人に追われてお品(大川恵子)という娘が逃げてくる。娘は名高い三味線「山彦」を抱えていて、幕府の老中・柳沢吉保はそれを狙っている。平家の御曹司・伊那の小源太(大川橋蔵)は、迷い込んできたお品に一目惚れし、妻にする。そして、小源太は一つの三味線と平家の一族の存亡を巡って、幕府に戦いを挑んでいく。

大川橋蔵が伊那の小源太と江戸の剣道道場の師範・島崎無二斎の二役を演じ、ヒロインはお品を演じる大川恵子と無二斎に恋する町娘・おむらを演じる丘さとみ。

劇中、小源太以外の平家の末裔が皆殺しにされたり、お品の父が山彦を狙う役人に殺されたり、小源太と顔が瓜二つの島崎無二斎が小源太の身代わりになったりと悲しい展開も多いが、全編どこか明るく見やすく、伊藤作品のような悲壮感はない。少々不気味なシーンはあるが、どこか軽やかだ。

もちろん音楽の使い方の影響もあるだろうが、役者の芝居の所作の軽やかさもあるだろう。小源太とお品の出会いのシーンや、顔が瓜二つの小源太と無二斎の遭遇するシーン、無二斎とおむらが道場で酒を飲みながら思いを告げるシーンなど、役者は回転し、背を背け、振り返り、手つきも踊りのように軽やかに動く。

殺陣のシーンも同様で、殺し合いという血生臭いものではなく、集団のダンスのようだ。また、劇中で小源太の舞や阿波踊りの群衆も出てきたりし、全編が踊りを見ているような感じもする。もちろん、それぞれのキャラクターを演じる役者たちも魅力的で、二役を颯爽と演じる大川橋蔵、大川恵子と丘さとみの好対照な二人のヒロイン、無二斎の友人の画家・英一蝶を演じる怪優・伊藤雄之助、小源太の部下を演じるマキノ作品常連の田崎潤と田中春男などが画面を彩る。

もしこの話が21世紀に撮られたり、当時の東宝で撮られたりしたなら、おそらく平家の一門と江戸幕府の戦いと運命的な恋を描く壮大で劇的な大作になっていただろう。間違っても敵の屋敷に阿波踊りの群衆に紛れて飄々と忍び込むということはないだろう。

この娯楽的な軽さと見やすさ、爽やかな恋の映画にしてしまうマキノ雅弘の歴戦の職人的な手捌き、振付は一見の価値がある。

それにしても、スリをして生計を立てるおむら(丘さとみ)の可愛らしく「ちくしょう」と言う明るい魅力に降参してしまう島崎無二斎の気持ちはよくわかる。

「恋山彦」U-NEXT配信

Amazon Primeに本作品はまだ配信されていませんが、1937年版の「恋山彦」があります。(超貴重!)またマキノ正博名義の戦前の傑作、60年代の高倉健主演の任侠ものも多数あります。

情念の作家・加藤泰 「沓掛時次郎 遊侠一匹」(1966年・東映)

最後になったが、最も男女の情念を描くことにこだわった作家が加藤泰だ。

「丹下左膳余話 百萬両の壺」(1935年)、「河内山宗俊」(1936年)、「人情紙風船」(1937年)といった映画史に残る傑作を撮り、28歳で戦地にて病死した伝説的な時代劇作家・山中貞雄を叔父に持ち、その叔父のコネで映画界に入った人物だ。また先に紹介した伊藤大輔を尊敬し、彼の作品で映画に目覚めた。そのためか加藤泰の作品は叔父の山中作品よりも伊藤作品に近い。

戦争を挟み、東宝や大映で長く助監督を務め、「剣難女難」(1951年)で監督デビュー。その後移籍した東映で「風と女と旅鴉」(1958年)、「瞼の母」(1962年)、「真田風雲録」(1963年)、「幕末残酷物語」(1964年)、「沓掛時次郎 遊侠一匹」(1966年)などの時代劇、「明治侠客伝 三代目襲名」(1965年)、「緋牡丹博徒」シリーズなどの任侠映画を手掛けた。

他の映画と一線を画した独特のスタイルは多くのファンを持った。極端なローアングルからの長回しや、そこからのクローズアップ、美しい背景美術などの様式美と、同時録音(当時はまだアフレコが多かった)、ノーメイク(時代劇では役者は白塗りが普通だった)など、芝居の生々しさを追求し、独自の美学に溢れた映画世界を作り上げた。

特にトレードマークであるローアングルからの撮影の逸話として、加藤組の助監督は監督の指示でいつでも地面を掘れるよう、スコップを常備していたという。また、物語としては男女の情念にこだわり、アウトローの男と女の決して添い遂げられない関係を描き続けた。

「沓掛時次郎 遊侠一匹」は、任侠映画の人気で時代劇が撮れなくなってきた東映で、加藤泰と主演の中村錦之助の「最後の時代劇」を撮るという執念を感じる力作である。

「沓掛時次郎 遊侠一匹」は、東映京都撮影所で撮影された。主演は、加藤泰と多数のコンビを組んできた中村錦之助。原作は、「瞼の母」、「関の弥太っぺ」など、股旅ものを生んだ作家・長谷川伸。

やくざ稼業に嫌気が差している旅鴉の時次郎(中村錦之助)は、やくざ同士の抗争に巻き込まれ、一宿一飯の恩義のために仕方なく六ツ田の三蔵(東千代之介)というやくざを斬る。三蔵は息を引き取る間際に自分の妻子を妻の故郷に送り届けてほしいと時次郎に頼む。時次郎は自分が殺した男の妻・おきぬ(池内淳子)と子供を連れて旅に出、お互い恋心を抱くようになるが、ある日、おきぬたちは時次郎の元から去ってしまう。

実は、時次郎とおきぬの最初の出会いは、まだ三蔵を斬る前に渡し船の中で一緒になった時だった。そこでおきぬは時次郎に柿を渡す。

この「女が男に季節の果物を渡す」というのは加藤泰が頻繁に行った演出で、「明治侠客伝 三代目襲名」では桃、「緋牡丹博徒 お竜参上」(1970年)ではみかんを渡す。その後、おきぬの子供を肩車しておきぬと歩くシーンの夕暮れの背景美術が素晴らしく、美術監督の井川徳道の職人芸が冴える。

また、おきぬが時次郎の元を去る際、折れた櫛を残して去るというのも、言葉に出さなくても思いが伝わるような小道具の使い方だ。

やはり一番美しいシーンはおきぬとの再会シーンだろう。時次郎はおきぬが去った後、雪の中の飲み屋で一人酒を飲みながら、女将に友達の話と偽って、おきぬとのこと、しがらみ、後悔を話す。引いたサイズのフィックスショットでの一連長回しだが、錦之助の息を呑むような芝居で見せてしまう。そして話し終わった後、外から三味線の音が聴こえてくる。それはおきぬが弾いてくれた曲だった。時次郎が外へ飛び出すと、子供を連れて雪の中で三味線を弾くおきぬが歩いている。しかし再会もつかの間、元々病弱だったおきぬはその場で吐血する。真っ白な雪の上に赤い血。ここでも井川徳道の雪のセットが美しい。

最後、時次郎は病床で死にゆくおきぬを置いて、またやくざのしがらみで抗争の助太刀に向かう。殺陣での錦之助の鋭く力強い刀捌きも見事だが、おきぬのこととやくざのしがらみを思い、鬼気迫る顔で相手を斬り、もはや顔で人を斬っているのではないかという表情は、より殺陣に迫力をもたらしている。それまでの情念の演出が殺陣のシーンを引き立たせている稀有な作品だ。

加藤泰作品のラストシーンの主人公、というより中村錦之助は、悲痛な後ろ姿で一人去っていくことが多い。ここでも中村錦之助演じる時次郎は、刀を投げ捨て、悲痛な背中を見せるだろう。加藤泰と錦之助のコンビの時代劇、情念の物語への熱い執念が見える美しい傑作である。

「沓掛時次郎 遊侠一匹」Amazon Prime配信

「沓掛時次郎 遊侠一匹」U-NEXT配信

The movie is total artは撮影所にて

今回三本しか紹介できなかったが、最近Amazon PrimeやU-NEXTで多くの東映、大映の作品を簡単に観られるようになったので、ご興味あれば是非。

古臭いとか、たかがチャンバラ映画と思われるかもしれないが、時に軽やかで時に悲しい恋の映画として観れば、違った見方ができるかもしれない。はっきりとした言葉じゃなく、ふとした仕草や視線のやり取り、小道具の使い方で見える感情の機微をじっくり味わえるはずだ。もちろん、殺陣も素晴らしい。

映画は発見され続ける。そして、発見され続けるものは新しい。

このThe movie is total artという企画に、日本映画全盛期の撮影所で撮られた作品群は相応しいと思う。映画スターたち、脇役の大部屋俳優たち、職人スタッフたち、そして、それをまとめる歴戦の監督たちのトータルアートが観られる訳だから。


文:永岡俊幸

“The movie is total art”
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永岡俊幸(ながおかとしゆき)1989年、島根県益田市出身。日本映画学校(現:日本映画大学)卒業後はフリーの助監督として活動。現在は会社員をしながら短編映画を制作している。2018年制作の『オーロラ・グローリー』は、きりゅう映画祭、日本芸術センター映像グランプリ、おおぶ映画祭などで入選している。今年4月には、ヒューマントラストシネマ渋谷で初長編『クレマチスの窓辺』の公開を控えている。

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