動物と人間の美しい関係~江國香織『デューク』を読んで

動物と人間の美しい関係~江國香織『デューク』を読んで

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動物という生き物から発せられる、野生の匂いと強さ、優しさが好きだ。

身体に触れて感じ取れる、人間より高い体温、濡れた鼻先、薄くひんやりとした耳。彼らの毛並みを撫でている時に、ひどく安心感を覚える。それは何にも代えがたい安心だ。真夜中に彼らの瞳を見ると、そのあまりの美しさに、人間という生き物の劣りさえ感じてしまう。決して人間に美しさが無い、というわけでは無いのだけれど、それでも彼らには彼らにしか持てない美しさがある。見せびらかすのでも自慢するのでもなく、陽の光に当たった青い硝子のように、ただ身体の底で揺らめかせている美しさーー

この美しい有機体が、生き物が、いつか生命のことわりに従って死んでしまう時のことについて考え出すと、私の気持ちは突然にして憂鬱になる。死なない生き物は存在しないし、死を受け入れ、従う定めなのは分かっている。だけれど、自分のそばでいつも強く優しく生きていてくれる存在の死というのは、私にとってあまりにも悲しい。命が終わりを迎える時を想像しては、1分1秒でも温かい彼らの身体に触れていようと誓いたくなる。いつか過去になるその感覚を、忘れまいともがく。

そんな時に、私は携帯のフィルムカメラアプリで(通常のカメラモードで撮らないのは、もちろんわざとだ)彼らの小さな草原に似た毛並みの写真を撮ったりする。柔らかな毛に埋もれて、野生の匂いをめいっぱい吸い込むと、胸騒ぎがすっと落ち着いていく。

江國香織著『つめたいよるに』の冒頭の1編、『デューク』を最初に読んだのはいつ頃だっただろうか。その時は私の心が大分翳っていて、だからこそ、物語にいいようもなく救われたという気持ちがちゃんと忘れずに残っていたのだと思う。

すっきりと晴れた日の今日、陽光の差し込むすぐそばで、『デューク』を読み返した。そして、これはとてつもなく優しい物語だったんだな、と思い出した。

主人公”私”が飼っていた愛犬・デュークが死んだところから物語は始まる。大きな喪失感と悲しみに苛まれ、”私”はいつも通り仕事に行こうと電車に乗るも、涙が溢れて止まらない。そこに1人の少年が、泣いている”私”に席を譲る。席に座ってもなお泣き続ける”私”をじっと見つめる少年。

「コーヒーごちそうさせて」

電車を降りた後、”私”は少年にそう声を掛ける。2人は喫茶店から12月の誰もいないプール、美術館へと連れ立ち、そして少年は最後に”私”に言う。

「今までずっと、僕は楽しかったよ」

江國香織の作品は、いつだって悲しみに暮れる人たちに優しい。おそらく彼女の作品に登場する人たちの多くは、いつも強く生きていて、誰かに影響を与えうる不思議な光の環のようなものを持っている人たちなんだと思う。

そんな人たちが、ふいに光を失くす時。作者である江國香織は登場人物を写実的に描写しながら、しっかりと救済を与えていくし、適度に「そのままにしておく」。風景という広い世界に、登場人物たちが溶け込んでいくのを引き止めたりはしない。「戻っていく」のを見届け、フェードアウトのような終わり方をする。

言わずもがな、この少年は”私”のとめどない涙を止めさせ、ぬぐう役割を負った人物であることに間違いない。決定的な言及は避けるけれど、彼に出逢ったことにより”私”はまた、世界に満ちる光の在り処を探そうとすることが出来るだろうし、12月のプールが存外にも素敵であることを知っただろうし、デュークのことをずっと忘れず、変わらずに愛しながら生きていくことが出来るだろう。

動物を愛する人間たちにとってのこの短編は、彼らを愛し慈しむ気持ちというのは尊くて、それは巡り巡って何らかの奇跡のようなものをこの世界に作用させているかもしれない、という希望を持たせてくれる作品だ。

愛しただけ愛される。

当たり前だからこそ、本人(と動物たち)はこの尊さになかなか気づかない。見返りだとかいう図々しさは、この言葉の中に含まれない。ただ純粋な、冬の朝に似た清廉さだけで構成された間柄だ。

もし、愛する動物たちがいつかこの手から離れてしまうことを想像してしまう夜が来た時には、そっと守護符のようにこの本を、『デューク』を、そばに置いておく。

ただありのままに、彼らを愛し、その時を待ち、ふとした奇跡を目の当たりにして、その先を生きていきたい。


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Ando Enu

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