「トランスジェンダーを描いた映画『ミッドナイトスワン』『リリーのすべて』より、モノから読み解く映画鑑賞論」

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「トランスジェンダーを描いた映画『ミッドナイトスワン』『リリーのすべて』より、モノから読み解く映画鑑賞論」

多様性とは、何か。

セクシャル・マイノリティへの関心が高まり、普段私たちがエンタメとして享受している作品の中にもしばしばLGBTQへの気づきと理解への指標が示され始めた。この動きは、私たちがこれからの社会を生きていくのに必要なプロセスであり、また、作品も受け手側も等しく真摯に彼らのことを描き、受け止めなければならない。そうしてひとつずつ思考をアップデートしていくことが、いま最も求められているスタンダードな生活様式における成長の形なのではないかと、日々を生きながら強く感じる。

邦画・洋画問わずLGBTQ映画というジャンルはひとつの区分として確立し、時代が流れるにつれ変遷していく人々の思考をそこに映し出してきた。本コラムでは、心と体の性が不一致である人物を指すトランスジェンダー当事者を描いたふたつの映画を紹介したいと思う。2020年9月25日に公開を迎え、今なおロングランを続けている邦画『ミッドナイトスワン』と、2016年3月18日公開の洋画『リリーのすべて』。前者ではトランスジェンダーの女性、凪沙を元SMAPの草彅剛が演じ、後者では実在したトランスジェンダーの女性、リリー・エルベを英国俳優のエディ・レッドメインがそれぞれ演じている。

(C)2020「MIDNIGHT SWAN」FILM PARTNERS

(C)2015 Universal Studios. All Rights Reserved.

両作品に特筆すべきなのは、トランスジェンダーであるふたりの女性がそれぞれに歩んだ生涯を映画の中で追う形となっていることだ。いわば、自伝的映画といったところだろう。そういった形を取る映画の中でフォーカスされるのは「どのような人間――姿かたちで生きたか」といった形骸のみの枠決めではなく、「どのようにして人生を生きたか」という「How」の部分だ。ひとりの女性として、彼女たちがどんな人物と出会い、愛し、時には重大な決定をし、生き抜いたかが描かれる両作品は、想像に難くない豊かなリアリティを鑑賞後に感じさせる。

もちろん、心と体の性が一致しないことによる当事者たちの心の痛みも劇中では虚飾なく描かれる。そこを抜きにして、彼女たちの人生を語ることはできないからだ。しかし、痛みを感じながら生きる彼女たちには、己の光となりうる人物がそれぞれにいたことも同時に描かれている。その「光」こそが、彼女たちの物語を照らすものであり、両作品はそうした陰りの中に差し込む光を強調して描くことによって、トラジックだけで終わらせないドラマチックな「人生」を描き切っているのだ。

そこで注目していただきたいのが、彼女たちの身につける「モノ」にも人生における物語が付加されているという点である。凪沙が履いていた赤いハイヒールは、まだなお偏見意識の残る田舎の一本道を歩くとき、ことさら大きくカツカツと音を立てる。まるで差別の目に曝された彼女の怒りを代弁しているかのように。

「凪沙の履くハイヒール」というモチーフは度々劇中で意図的な演出を示し、彼女が痛みにあえいだ人生の中で唯一見出した希望が輝き始めるラストへと繋がる瞬間、観客は改めて彼女の履いていたハイヒールの凛とした赤さと、それを履きこなしていた「女性」である凪沙のことを回想するのだ。

また、『リリーのすべて』では死に至る危険のある性適合手術を受け、弱りきったリリーが息を引き取った後、彼女の妻が丘に登り、リリーの身に着けていたストールが風に舞い上がっていくのを引き留めず「飛ばせてあげて」と言い、彼方へ飛び去って行くのを見守るシーンがある。妻がささげた愛を抱きながら風となり空へと還っていくリリーは、最期には誰の元へも帰らず、自身の肉体を解き放ち自由になる。己の中に潜む愛と、その愛を抱き込むリリーという女性を愛していた彼女の生涯を、エンドロールに差し掛かる前にひときわ強く胸に描く。ストールを巻き「女性」になり、誰よりも愛を信じていた彼女の輪郭をなぞり、その柔らかさに深く心を沈みこませる。

『ミッドナイトスワン』と同じく、彼女たちの身に着けていた「モノ」に文脈を持たせ、語らせた余韻の残る素晴らしい演出だ。

LGBTQ映画に限らず、映画を読み解く際には「映っているものすべてに意識を分散させる」ことで、大筋だけでは拾いきれない細かなストーリーの綾を読み解くことができると私は考えている。演出、美術、背景、音楽。映画はあらゆる芸術の総合作品であり、こういったひとつひとつの表現に注目して観ることにより、根幹となっているテーマへの理解度もいっそう深まる。前述したような「モノ」に彼女たちの人生を交錯させ語らせる演出なども、「女性」として生きたふたりの人物の「人となり」を知る上で重要だ。

ひとりの人間としてセクシャル・マイノリティ当事者たちを見つめ、感じ、考える――口先で言うには簡単だが、自分とは異なる生き方をしている人物の内面を深く考えることは難しい。しかしこのように彼らを主人公に据えた映画を観るときに、自分の感性を全開放させ、どこか一点だけではなく、広い視野をもって鑑賞することで見えてくるものがきっとあるのではないだろうか、と感じる。

姿かたちだけではなく、人生を知る。

多様性とは、何か。どうすれば、この世界に様々な人間が生きていることを知り、理解できるのか。

その一歩として、映画を文字通り「観る」ことをおすすめしたい。観るとは知ることに、知ることは理解することに繋がる。映画は人々を愉しませることのできるエンタメだが、同時にとても上質な学びにもなるのだということを伝えたい。

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Ando Enu

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