映画で伝えること、伝わること ~短編映画「五時のメロディ」制作を通じて~
名古屋市がこの程リリースした短編映画「五時のメロディ」。
「物語」が人を動かす可能性に、行政と民間が同じ温度感で想いを懸け、巷にありがちな刹那的なPRムービーとは一線を画す作品ではないだろうか。筆者がプロデューサーを務めているので、手前味噌ではあるがそこは大目にみていただき、本作について少し語らせていただきたい。
※ほんの少しだけネタバレがあります
あらすじ
名古屋市を流れる中川運河。
そこを走る観光船クルーズ名古屋の操縦士美咲は、まだ運河内だけでの操縦しか許されておらず、海での操縦ができるために日々研鑽していた。そして運河と海をつなぐ通船門に勤める亮との結婚も控え、毎日を必死に生きていた。
ところがある日から美咲のシフトの時に限って、下手くそなラッパの音が聞こえてくるようになり、業務の邪魔にも感じはじめていた。それは、昔家を出て行った父誠一だった。静かな運河で紡がれる、不器用な父と娘の物語。
幼い頃に離れた父と娘の確執、という普遍のテーマ
選ばれた原案は、さまざまな意味で多くの人に共感を持たれるべきであろうものとなった。当然その分エッジは立たない。しかし、多くの人に観てもらいたいのであれば、広く受け入れられる普遍性が必要なのだ。人気がでる、というのはそれだけターゲットが広くなければいけない、ということだと思っている。それは妥協や迎合ではなく戦略なのだ。
性別、家族、結婚、仕事、社会的な課題やテーマと創造性のバランス
当初は、「いまだ蔓延る保守的な価値観に特に女性はぶつかることが多く、それに打ち勝っていくことで気持ちを高める」という方向で脚本を進めた。
しかし、行政の立場としては、「多様で公正な立場でいる必要がある」ため、生々しい葛藤(ハラスメントに頼るような攻撃的な表現)を排除せざるを得ないため、脚本上の具体的な描写や表現はできるだけ避けることになった。これは、ある種アナーキーな立場で創作に携わってきた制作陣にとって、どうしたら共感を生むことができるのか、という意味で大きな冒険となった。というのも、不条理な出来事ほど人の感情を揺さぶるには容易く、そこに物語全体で勝負していく、という構図はメッセージとしても作りやすいからだ。
結果、脚本を何度も推敲し様々な公正を鑑みたところ、よくもわるくもフラットなストーリーになった。
そして残ったのは、おそらく「感情」
濾しに濾されて残ったのは、我が子への愛情、離れていった親への複雑な気持ち、仕事への意地、失いたくないこれまでの自分など、登場人物それぞれが守ろうとしている想いや感情となった。
社会的な課題や状況という武器に頼らず、人間の本質的な部分のみで勝負をすることになったのだと思うと、それはそれでいい挑戦ができたのかもしれない。
ロケーションが映画の骨格を作る
こうした人物の感情以外には、メインロケーションである中川運河とクルーズ名古屋をどのように活かすかを徹底的に考えた。運河の穏やかな水面や船窓を流れる景色の変化はもちろん美しく映像映えするのだが、より登場人物の日々の営みにつながるロケーションは無いか?とロケハンを繰り返していった。
その中で目に留まったのが何度もクルーズ船が通過する「橋」と、その先に構える運河と海を繋げる「通船門」であった。「橋」は美咲と誠一が刹那に関わる場所として、「通船門」は美咲の置かれた人間関係をぎゅっと凝縮する場所として映画のなかでも特に象徴的に描いている。ちなみに通船門の「門」はさまざまな意味を含んでいる。そこは映画を見て感じとっていただきたい。
音楽は外せなかった
プロデューサー権限を振り翳してねじ込んだ要素が「音楽」や「楽器」だった。「感情」を揺さぶる要素として、映画に許されている大きな武器はやはり音楽だと思っている。
主演の一人、近藤芳正さんから「どうしてコルネットにしたのか?」という鋭い質問を頂いたことがある。(めちゃくちゃ短期間で吹けるようにしていただき、ありがとうございました)
「トランペットでは花形すぎるし、サックスもオシャレすぎる。今回描きたいのは、スポットは当たりにくいが、鳴ればその存在を知ることができる楽器であってほしいから。」と答えた。言い換えると、ヒロイックな登場人物よりも、さっきすれ違ったかもしれない他人の物語にこそ、現実的な説得力を感じるし共感につながるのではないか、と。
ちなみに劇中の近藤芳正さん演じる誠一のコルネットの音は、ほぼご本人のものである。
監督の描写の真面目さが最後の砦
今作の決定尺は25分。ところが、編集してみたら38分。ありがちな状況だが、エッセンスをさらに磨くしかない。こういった場合、「なくても成立する」セリフをカットしたり、編集のつなぎで誤魔化すことも多々あるのだが、「セリフのないカット」で感情や状況を描くという「行間」のような場面を細やかに撮影していたため、映画の醍醐味要素(観れば読解できるギミック)がかなりしっかり表現されていると思う。
それが、「亮と誠一の夜のベンチのやりとり」に代表される言葉での説明と、「修正液で書かれた二つの丸」といった静物のように、「誠一の心」がバランスよく描かれている。実はもっと乱暴にしても観ている側には気がつかれないこともあるのだが、そこは監督の誠実さのおかげで、濃度の高い表現を維持できたのではないかと思っている。
時間がない現場が生み出す底力
ありがちだが、かなりタイトなスケジュールで撮影をした。演者は現場リハが終われば1テイク目でOKを出すか出さないか、という状況。撮影側も動きに迷いがあってはいけない。さらに、小さなもちろんトラブルはそれなりにある。緊張感があるといえば聞こえはいいが、心がけていた「楽しくやろう!」という雰囲気はなかなか作れなかった。
しかし、蓋を開けてみれば、とても綺麗で(結果的に)計算された画が撮れていた。若手中心の現場だったが、十分に世に通用するものだと思っている。
広告の転換点になる映画として
社会は、「物質」から「物語」に視点が移り始めている。これまで永く続いてきた価値観を変えていくのは難しいが、集客を期待したい場所や物(クルーズ船)などといった、それ自体の「売り」よりも、あくまでそこを舞台とした「物語」にこそ価値が生まれ、そこに人が興味を持ち、訪れる、という流れを作ることができる。企画時から関係者は皆その可能性を信じることができた。
要は、「直接的な訴求に人々は疲れている。」ことが認知され始めた、と思っている。一歩引いて眺めることができる物語とその背景に、少しの憧れや共感を抱く不確定な要素にこそ強い訴求力があるのではないか。
これは、映画に関わり始めた時から、私がずっと考え続け、提案し続けていた可能性であった。
いかがだろうか。単にいいお話を披露したかったわけではない。主人公の美咲と同じように、大海に出る覚悟をもって試行錯誤や挑戦をしている作品であり、誠一が吹くコルネットの音色のように、たくさんの人に沁みる作品であること。そんなものづくりを、一度目にしていただきたいと願っている。