『トイ・ストーリー』が育んだ「男らしさ」の行方
映画が描く、時代と価値観 ~多様化の時代だからこそ、映画から掴み取りたい想い~
多様化、という言葉が世の中に溢れて久しい。時に都合よく、時に便利に、時に勇猛に、この言葉は使われる。同時に、価値観、という言葉も改めて意味を問われている。この価値観は、時代によって翻弄されてきた。それは、私たち人間性そのものが翻弄されてきた、とも言える。なんだかよくわからない風潮、というものによって。
映画も同じように、時代に翻弄されている。しかし、映画が面白いのは、翻弄されているのではなくて、翻弄されてやっている、からではないだろうか。映画という表現手法を使って、制作者たちの想いやメッセージ、時に社会を動かす企業のメッセージが発信されてきた。
古き良きマスターピースにこそ、それが宿っている!と思うかもしれない。いやいや、そんなことはない。今この瞬間にも生み出されている映画にも、歴史を覆すかも知れないメッセージや新しい価値観が込められているかもしれない。
今やエンターテインメント性しか求められなくなったメジャー(商業)映画とはいえ、作り手の執念は時に凄まじい。なぜならば、現場の一スタッフから制作会社のトップまでが強い想いで貫かれているからだ。
そんな作品は、見れば見るほど、掘れば掘るほど、それぞれの価値観が見出されていく。ひょっとしたら時代を映した自然現象かもしれない。
記念すべきこのコラムの第一回は、「映画が映す時代の価値観」をあのエンターテインメントシリーズから若手の映画監督が紐解きます。
気合が入って少し長いかもしれませんが、明日観るかもしれない映画の視点が少し変わるかもしれません。
BLAZEVY The movie is total art 編集担当 辻 卓馬
『トイ・ストーリー』が育んだ「男らしさ」の行方
1995年、7歳の僕は『トイ・ストーリー』を映画館の大きなスクリーンで文字通り前のめりになって見た。2019年、31歳になった僕は気づいたら映像を作ることを生業に、映画を作ることを人生の中心に生活をしていた。あの完璧な終わり方を見せた『トイ・ストーリー3』の続編はどんな物語なのか、期待に心と体を弾ませながら見た『トイ・ストーリー4』は、24年続くシリーズが育んできたキャラクターと現代的なテーマが複雑に絡まりあった驚くべき傑作であった。老若男女が楽しめるアニメーション映画にして、ここまで重くて誠実なメッセージを伝えようとする制作者たちへのリスペクトと感謝を込めて、幼少期から成人期を通して見てきた思い入れのあるこの『トイ・ストーリー』という「保守的」な物語について文章にしてみたい、と思った。※ 文:岩田 隼之介
「きみはおもちゃだ」
「トイ・ストーリー」シリーズでは繰り返される言葉がある。ある時はスペースレンジャーとして無限の彼方へ飛び出そうとするバズに対して。ある時は自身をレアおもちゃだと認め、子どもから遠ざかろうとしたウッディに対して。そんな彼らに放たれる言葉、「きみはおもちゃだ」。子どもを楽しませる道具であることを自覚させるその抑圧的な言葉は、初のフルCG長編アニメーションとして発表された『トイ・ストーリー』(1995)から24年を経た『トイ・ストーリー4』(2019)にも引き継がれている。ウッディたちの新しい持ち主ボニーによって生み出された、使い捨ての先割れスプーンとモールの身体を持つ「フォーキー」は、自分はゴミだゴミだと言いながら何度も何度もゴミ箱に身投げをする。そんなフォーキーの、今にも壊れてしまいそうなモール製の肩を掴み「きみはおもちゃだ」とウッディは語りかける。
「きみはおもちゃだ」は言い換えれば「身の程を知れ」である。個人の自由意志を抑圧する言葉を、ウッディは保安官という立場から常に説いてきた。それがこの世界の唯一の正義、であるかのように本棚から、階段から、二階の窓から落下を繰り返し必死に説いてきた。しかし、そんなウッディにもおもちゃとしてのアイデンティティが揺らいだとき、自分を確かめる術がある。そう、背中の紐を引っ張り、自分の「内なる声」を発することだ。今回は、ウッディ、そして彼の相棒バズが持っている「内なる声」を軸に、「トイ・ストーリー」シリーズがどのような物語を語ってきたか。そして『トイ・ストーリー4』でどのような結末を迎えたかを考えていきたい。
「内なる声」の呪縛 < プリセットされた運命 >
「トイ・ストーリー」シリーズで「内なる声」を初めから持つのはウッディとバズのみだ。いわゆるプリセットボイスである。紐を引っぱり(ウッディ)、スイッチを押せば(バズ)自動的に発せられてしまう「内なる声」は、自らの意志とは関係なくプリセットされた機能として様々なシーンで面白おかしく、時には切実に、二人の複雑な内面を表してきた。特にウッディはこの「声」があるおかげで、持ち主たち(アンディやボニー)との間に(遊びの上で)リアリティと親密なコミュニケーションを築くことができ、強い信頼関係を結ぶことができたのである。
さて、「トイ・ストーリー」シリーズにおけるウッディの「内なる声」が機能するシーンを整理してみよう。
まず、アンディとのごっこ遊びのなかで保安官としての登場するシーンや、シドの部屋でおもちゃとしてバズより自分が劣っていることを認めるシーン(『トイ・ストーリー』)。
次におもちゃマニアで玩具量販店「トイ・バーン」経営者のアルによって、ガレージセールで見つかるきっかけ、そして正真正銘のレアおもちゃであることの証として「内なる声」の再生(『トイ・ストーリー2』)。
仲間と決別し、サニーサイド保育園から逃げている過程で身動きがとれなくなった状態で、「内なる声」が発せられることによるボニーと出会い。これがボニーのつくる「コミュニティ」へのスムーズな参加へと繋がる(『トイ・ストーリー3』)。
いずれも「おもちゃであること」を強く認識される場面で「内なる声」が使われるのである。「内なる声」が発せられたとき、おもちゃはおもちゃであることを強制されるのである。
あらためてウッディとバズがどんな「内なる声」を持っているか確認してみよう。
ー ウッディ・プライド
「銃を捨てろ、手をあげな」
「あんたは俺のあいぼうだぜ」
「俺のブーツにはガラガラ蛇」
「やられたぜ、汚ねえ手つかいやがって」
「ならずものをやっつける前にちょっと歌を歌うぜ」
「誰かが毒を泉にいれたな」
ーバズ・ライトイヤー
「無限の彼方へさあいくぞ」
「バズ・ライトイヤー参上」
「宇宙の彼方に秘密の任務がある、さあ行くぞ」
「大気に毒性があるヘルメットをしめろ」
「時間はない攻撃だ」
いかがだろう。実はこの二者には明確な違いがあるのにお気づきだろうか。ウッディの「声」には「他者」の存在がみられる。「あんたは俺のあいぼうだぜ」に始まり、町の保安官として常に町民という他者の気配が残っている。比べて、バズの「声」は極めて個人主義的な価値観が込められている。より遠くに自分の役割を置き、いまこの場所に自分の仕事がないことを宣言している。
背中の紐やスイッチによって発せられる「内なる声」によって、ウッディは保安官として、バズはスペースレンジャーとしてプリセットされた別の人格を強制的に演じさせられるのである。
まるで抗うことができない「運命」または「呪い」だ。そして発せられた2人のその「声」は実に「男らしい」のである。
保安官とスペースレンジャー < 男らしさの競争 >
そんな二人、シリーズの主役でもあるウッディとバズの関係性について考えていきたい。
◉ ウッディ・プライド <治安を過剰に維持する保安官>
カウボーイのウッディはアンディの部屋というおもちゃ社会の治安を維持する保安官である。
テキパキとおもちゃたちへ作戦を指示するリーダーシップ、どんな危機的状況でも諦めない心、大きな眼で水平線を鋭く見渡し的確な作戦を考える知能、ときには馬に跨いで駆け、スラリとした長身で冗談も絶えない良い男である。
言うまでもなく、ウッディは「西部劇」に代表される「マッチョなアメリカ人男性」という保守的な価値観を継承している。
バズたちにとってもプロスペクターたちにとっても「帰ってきた男」として西部劇のフォーマットを継承しつつ、どちらの家に帰るかという選択に迫まられた後、ジェシーとブルズアイを古い家族観から奪還し、新しい家族の一員として迎えアンディの家に帰ってくる(『トイ・ストーリー2』)。
アンディの成長によって家という「零細企業」から退職を迫られたおもちゃたちが、サニーサイド幼稚園という永遠に子どもがやってくる、いわば終身雇用制、福利厚生の厚い「大企業」のような施設で、半永久的に「おもちゃ」としての存在価値を保たれる機会を得る。しかし、ウッディはアンディという今の雇用主を裏切ってはいけない、必ず自分たちを使い捨てにすることはないと、仲間の説得を試み、保守的な考えを展開し「家に帰ること」にこだわる。しかし、バズたちとの別れをきっかけにアンディという「場所性」からバズたちという「関係性」に価値を見出すことで「家を出る」のである。家族こそ場所であり、守るべき治安であると保安官としての新しい価値観に気づく(『トイ・ストーリー3』)。
◉ バズ・ライトイヤー <目的を見失ったアイデンティティ>
光沢のあるプラスチック製のボディ。男子ごころをくすぐる最先端の装備(レーザービーム、ウィング、自動ヘルメット)を備えたスペースレンジャー。つまりは宇宙戦闘員であるバズは、ウッディに象徴される古いアメリカ(ローカル)から飛躍して、遠くの惑星(グローバル)での治安維持を任された存在として『トイ・ストーリー』に登場する。
「俺たちはおもちゃだ」と怒鳴り続けるウッディを尻目に、クールにここではないどこかへ行く準備をするバズだったが、シドの家で「バズ・ライトイヤーのCM」を目撃することでアイデンティティが崩壊。一時的に「女性化」する。実は、このシリーズにおいてアイデンティティの崩壊を繰り返す珍奇なキャラクターなのである。
玩具量販店トイ・バーンで大量生産された自分と対面し、初期状態バズとの格闘の末に、入れ替わりをさせられるが、仲間たちから強くは疑われずそのまま物語が進行する。その後に初期状態バズはスターウォーズのオマージュという「ありふれた父子の物語」によって「幼児化」する(『トイ・ストーリー2』)。
サニーサイド保育園で悪役ロッツォたちの手により、初期状態(記憶喪失)にされたバズは大きな組織(この場合は保育園)に忠実な宇宙戦闘員として仲間たちを傷つけてしまう。仲間たちの手により復元されたかと思えばエラーによりスペイン語バージョン(グローバル化)として再起動してしまう始末である。(『トイ・ストーリー3』)。
バズは絶えずアイデンティティの崩壊を繰り返してきたのである。
その姿は現実世界のなかで、欲望を隠しもせず、絶えず世界のリーダーとして、過剰に他国の治安に関わってきたアメリカの多重人格的な姿と重なる。
そしてそのバズの姿はシリーズにおいて常に「否定」されてきたのである。
つまり「トイ・ストーリー」シリーズはウッディの姿を肯定しつづけ、バズの姿を否定しつづけることで「保守的」な思想を示してきたのである。
「内なる声」=だれの権利の主張?
「内なる声」とウッディとバズの関係性を軸に『トイ・ストーリー』(1995)『トイ・ストーリ-2』(1999)『トイ・ストーリ-3』(2010)をごく簡単に振り返ってきた。さて、『トイ・ストーリー4』(2019)である。これまでのシリーズと比較しながらこの傑作について考えていきたい。『トイ・ストーリー4』では、過去最も「きみはおもちゃだ」とウッディが伝えている作品である。しかし、その意味は『トイ・ストーリー』のバズに対しての意味とは真逆のメッセージが込められている。
◉ 「きみはおもちゃだ」 < 意味の変化 >
『トイ・ストーリー4』には、ボニーが創造したフォーキーという新キャラクターが登場する。使い捨て先割れスプーンとモールによって出来ている、いかにも無知で、貧相で、か弱い存在だ。フォーキーは自らを「ゴミ」と自認して、ウッディが少しでも目を離すとゴミ箱へ「身投げ」するのである。ウッディはそんなフォーキーに対して「きみはおもちゃだ」と昔話や笑い話とともに、おもちゃとしての価値観を伝えるのである。そこにはバズに対する「きみはおもちゃだ=身の程を知れ」という抑圧的なメッセージではなく「きみはおもちゃだ=きみには生きる価値がある」という他者を肯定するメッセージに変化している。
◉ ギャビー・ギャビーとウッディ < アンバランスな「声(主張)」の歴史 >
そして今作にはもう1人おもちゃとしてのアイデンティティが欠けているキャラクターが登場する。
ギャビー・ギャビーだ。
ギャビー・ギャビーは、今まで一度も子どもに愛されたことのない、ボイスボックスが壊れてしまった、「内なる声」が充分に発せられないおもちゃである。自分が子どもに愛されないのは「内なる声」が壊れているからだ、と確信しているギャビー・ギャビーは、承認欲求が最大限までに膨らんだ「女性」のおもちゃである。
ウッディとギャビー・ギャビーは1950年代に生まれた歴史ある「内なる声」がプリセットされたおもちゃである。そんな「同級生」2人が並ぶことで見えてくるのは、男性と女性のアンバランスな「声(主張)」の歴史だ。白人男性の保安官であるウッディは「内なる声」を持った、アンディや仲間たちから愛やリスペクトを受けてきたリーダー的存在。そして饒舌に、時に強引に自分の主張を通し、結果的には成果を得てきたのである。たやすく「声(主張)」が社会に届いてきた「男性の歴史」そのものである。
一方で、「内なる声」が壊れているギャビー・ギャビーは、おもちゃの社会へ参加する機会すら得られず、いつか愛されることを夢みながら、手鏡で自分の女性的な外見に磨きかけてきた。つまり「選ばれる対象」であり続けていたのである。自身の存在や意志を「声(主張)」によって社会に届ける事を抑圧されてきた「女性の歴史」そのものである。
そんなギャビー・ギャビーとウッディの対比から見てとれるのは、「トイ・ストーリー」シリーズが許容してきた、ウッディ(またはバズ)の男性性への疑いと反省である。
◉ ボー・ピープ <選ばれることから自由になった女性リーダー>
そんなギャビー・ギャビーと正反対な女性キャラクターが再登場する。
ボー・ピープである。
かつて『トイ・ストーリー』では試練を乗り越えたウッディへの褒美として、自分の女性性で誘惑したボー・ピープが24年を経た今、裏返したスカートをマントに、細いステッキを勇者の剣のように背中に、ビックタイヤの四駆ラジコンに豪快に乗り込んだ末に、自分の腕が折れても笑い飛ばす快活さでウッディの前に登場し、これまでウッディが担ってきた進むべき道の選択や作戦の立案などを矢継ぎ早に決断していき、終いにはデューク・カブーンが通う危うげなクラブに入る際には「あなたはただ立っていればいい、口は閉じていて」と馴染みのおもちゃに「ただの連れ、おまけみたいなもんよ」とウッディの男らしさをとことんまで失墜させていくのである。
それにとどまらずデューク・カブーンの失われた自信を言葉巧みに鼓舞し、バイクスタントという無謀な男らしさを利用して作戦を成功させるのである。
◉ バズ・ライトイヤー <大きな声の空っぽな男性リーダーの誕生>
ウッディの男らしさとは違った男性像を見せるのがバズだ。ウッディが保安官やリーダーであることの表舞台から引き下がるに従って、おもちゃたちから次のリーダーと期待をされるバズ。しかしバズは、先述の様に、繰り返しアイデンティティの崩壊と再生を繰り返してきた存在ゆえに「自分が考えることを信用していない」のである。難しい判断を迫られる場面では周囲からリーダー的な振る舞いを期待されるが、自分を信用できないバズは錯乱し、戸惑いながら胸のスイッチを押して「時間はない攻撃だ!」という「内なる声」に従うのである。
つまり『トイ・ストーリー4』のバズは何かを選択する時の根底になる理念がなく(あっても自分を信じられない)、あらかじめ埋め込まれた「運命(呪い)」としての「内なる声(スペースレンジャー)」の判断に、仲間まで委ねる空っぽなリーダーとして表現されるのであるその勇猛果敢で中身のない「男らしい言葉」は、フィクションを飛び越えて現実世界のあの人やあの人やあの人にリンクする。
◉ ウッディ・プライド <「内なる声」を手放し、男らしさから自由になる保安官>
ウッディはこの『トイ・ストーリー4』で、さまざまな面でアイデンティティを喪失することになる。保安官として。リーダーとして。唯一残っている目的が、ボニーの為にフォーキーを救うことである。しかし、その目的を追求するあまり、ボー・ピープのチームを危機にさらしてしまい非難にさらされる。それでも「ボニーの為なんだ」と言うウッディに、「違う、自分のためでしょ、目を覚まして」とボー・ピープは説得する。バズすらも去り、独り残されたウッディに残された選択肢は、フォーキーを救うか、ボイスボックスを失うか、の二択。
言うまでもなくウッディの「内なる声」は「男らしさ」の象徴である。「内なる声」を渡すことは、自分が「おもちゃである」ことを放棄することに留まらず、24年間育まれたウッディというキャラクターの行動原理である保安官という立場を捨てることでもある。それは現実社会でも、アメリカという国のリーダーシップが揺さぶられていることを分かりやすく示唆する1人の男性主人公の秀逸な末路である。
葛藤の末、フォーキーを選んだウッディは、自らの「内なる声」をギャビー・ギャビーに渡す。それは「男らしさ」というプライドを抜き取ったウッディが見せた、本当の意味での他者への献身的態度だったのではないか。そして、だからこそ、ウッディとバズという2人の「男性」は長い長い抱擁を交わすことができたのではないか。
選ばれることから自由になること
もし自分が生まれた時から「選ばれなければいけない存在」だったらどんな気持ちだろうか?
あえて「トイ・ストーリー」シリーズに批判的な目線を向けてみると気づくことがある。そこには、子どもに遊んでもらうという役割を疑うおもちゃは一人もいないのだ。すべてのおもちゃが誰かに遊んでもらうことを望んでいる。それはとても狭い価値観に支配された世界である、それこそが『トイ・ストーリー』の物語的な限界であった。
選ばれることだけに最大限の幸福を感じ、選ばれたとしてもいつかは飽きられる恐怖に常に怯えている。そんな薄氷のような承認欲求に蝕まれたおもちゃの世界の価値観を『トイ・ストーリー4』は主人公・ウッディから「内なる声」=「男性性」を抜き取ることで見事に壊してくれたのだった。
「きみはおもちゃなんだ」は言いかえれば「身の程を知れ」かもしれないが、「自分の価値に気がつこう」でもある。常に選ばれないことへの恐怖で、ウッディを男らしく突き動かしてきたピクサーの懺悔。そして24年を経て辿り着いたウッディの解放。誰かに選ばれることだけが「人生」の目的ではないことに初めて気づいた元・保安官は「無限の彼方へさあいくぞ」とバズの決め台詞をつぶやく。そのとき互いの「内なる声」は静かに黙っているのだ。
最後に、ウッディがフォーキーに言い続けてきた言葉は、ピクサーが真面目に切実に観客に伝えたかったメッセージだと思えてならない。
「あなたには価値がある」と。
文:岩田 隼之介
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