愛という不可解で運命的なものについて ーオノ・ナツメ『not simple』
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この本は、当時中学生くらいだった私に「おしゃれな本を読んで背伸びしてみたい」という憧れを抱かせる本だった。
駅の改札内、英語教室の帰りに寄るのが好きだったベーカリーの隅の席で、甘くないコーヒーを飲みながらページをめくった。しかし、幼かった私にはこの作品の良さを理解できないまま、分厚い本を最後まで読んだという達成感のみがミルクの膜のように残り続け、あれから十年ほどが過ぎた。
思い立って、最近またこの本を読み返した。あの時のようにじっくりと読んで、しかし今度は「ちゃんと物語を理解しようという姿勢」で、そしてそれなりに大人になってから読むと、まるでこの作品は別物のように私の五臓六腑に落ちていった。ようやくミルクの膜だけではない、飲み下した時のコクのようなものを理解したのである。そして思ったことは、これは悲しい物語だったのだ、ということだった。
オノ・ナツメといえば、私は『リストランテ・パラディーゾ』を代表作として思い浮かべる。それなりに年季の入った老紳士たちが営むレストランが舞台。エプロンや眼鏡といったシックな装いの中に見え隠れする色気だったり、若い女性を虜にするような、熟された人生から垣間見える優しさだったり懐の広さ……そんなものが魅力的といえる作品。オノ・ナツメ氏の描く人物は、見てくれだけでなく、内面もちゃんと歳を取っているところが魅力的だ。年齢を重ねることにネガティブなイメージを抱く人もいるかもしれないが、マナーや礼節を重んじ、相手の気持ちを汲み、スマートにふるまう彼らを見ていると「こんな風に年をとりたい」と思わせられる。熟したワインのように繊細で、芳醇な人間味を醸し出し、女性だけでなく男性、老若男女をも魅了してしまう。
そんなオノ・ナツメが描く『not simple』は、その名の通り”単純でない”人間しか出てこない。主人公のイアンを始め、真っ当なやり方で人を愛せなかった人たちの繰り広げる群像劇だ。これが運命のいたずらというなら神様はとんだ意地悪だ、というお決まりのセリフを言いたくなるような、最初から最後まで悲劇的な運命に翻弄され、生涯を終える主人公の物語である。
アメリカのとある州。駆け落ちの計画がばれ、父親から「恋人を殺す」という脅しを受けた少女・アイリーンは、恋人の身を守るために、偶然道端で眠っていた青年・イアンをその身代わりにしようと思いたつ。自分を監視する父の手下に、イアンが恋人であると思わせるよう振る舞うアイリーンだったが、イアンの身の上話を聞くうちに、彼が自分の叔母と再会するためにこの街へやって来たことを知り――。
愛とはどんなものなのか、と懐疑する経験がないと、この物語は心に深く刺さらない。だからこそ、当時の私には分からずじまいだったのだろう。無条件な愛に囲まれて育った幼少期の真っ只中だった私には、イアンがどうしてこんな人生を歩むことになってしまったのか、周囲の人間たちはどうしてこんなに難しいものを抱えているのか、慮ったり考えたりすることが出来なかった。
“お前のことを小説にする。”
イアンの親友であり小説家でもあるジムの台詞は、まるで映画の台詞のようにドラマチックだが、その言葉には重みがある。家族を望まぬ彼のもとへ家族という存在、”愛される”という幸福は降って来て、家族に焦がれ、愛することを求めさ迷うイアンの元にはいつまで待ってもやって来ない。約束という不確かな言葉を信じて生きるイアン。約束を待つ彼のもとへ、また新たな約束を交わす女性との出会いがもたらされる。
そうして彼は悲劇的な運命に何度も翻弄され、傷つき、汚れて、それでも愛というものをまっさらだと疑わないままに、死んでいくのだ。
彼が生まれ変わった時には今度こそ愛されてほしい、なんて、そんな定型文のような言葉で彼の人生を目の当たりにした後の思いを締めくくりたくない。ただ、一心不乱に願ってしまう。どうか、どうか彼の人生が、この一度きりの人生が、彼にとってただ悲しいばかりのものだったわけではありませんように、と。ジムやリックとの出会い、カイリと過ごした束の間だけど何にも替えられない時間、アイリーンの母との夜。あの不器用な笑い方で、心から幸せだ、と思って笑えた時間が、彼の人生の一端にでもあれば良いと思う。
イアンのあの笑顔が一枚の写真のようにいつまでも私の胸に焼きついたまま、愛とは一体何なのだろうか、と何度目かの疑いを世界へ、そして自分自身へ向ける。さ迷い喘ぎ求め、渇望し、静かに目を閉じる。愛とは本当に、小説のようなものなのかも知れない。
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