ジョン・ガリアーノとジェレミー・ヒーリーの目論見。齎し齎されるMaison Margielaのエートス、破壊と再生(≒脱構築)
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目次
- Maison MargielaのDéfilé(行進)が私の記憶となった日
- “ジェレミー・ヒーリー”という名のテクニック
- 一曲目は“ジョン・ガリアーノ”
- Maison Margielaへと紡がれるDIOR
- ガリアーノが脱構築したMaison Margielaの破壊と再生(≒脱構築)
- ショーは如何にして記憶へと変容するか
- 齎し齎される破壊と再生(≒脱構築)のパラドックス
ファッションショーが垂れ流されるTVから聞こえてきたChristopher Timothy Willisの『Bold Action』(2015)は、BPMを酷く引き上げられていた。
音に釣られてTVに目をやると、そこに映し出される時空は伸び縮みを強要されており、人為的に歪められている。
モデルたちは早送りとスロー再生を交互に食らい、常に前のめりに、時折じれったそうにウォーキングしていた。
Maison MargielaのDéfilé(行進)が私の記憶となった日
2019年の10月、Maison Margiela Spring-Summer 2020 ‘Défilé’ Co-ed collection by John Gallianoがフランス・パリで発表された。
情報が溢れるこのデジタル時代における人間の“記憶”の在り方にフォーカスしたこのコレクションは、忽ち私の記憶となりべったりと私の脳裏にこびり付いた。外的要因ではなく、そのショー“自体”により観ざるを得ない状況にさせられたと感じる。
激しいインダストリアル・ミュージックに電子音を介して繋がれた讃美歌39番『Adide with Me』(1847)は壊れた玩具のロボットのように時々悲鳴を上げている。それはまるで、結核による闘病中にこのメロディーを詩作し「生涯、苦境、死において共にいてください」と神に祈りながら3週間後死にゆくヘンリー・フランシス・ライトの蘇生。
壊れ、バグった体を起こしながらも誇らしく佇む音だった。
次いでマレーネ・ディートリヒが高らかと『Lili Marleen』(1938)を歌い上げる。そんな優雅な時間は束の間、休日と名付けられた24時間は短い。
戦争のように混沌とし、慌ただしい日常に一気に引き戻される。月曜が来れば私達は駆け足で出勤し、その足で金曜まで働き抜く。
“I work, All the fucking time, From Monday to Friday, Friday to Sunday……”
労働はクソだ。
『労働者階級の女』(Working Class Woman)というタイトルが付けられたアルバムに収められているこの『Work it』(2018)には、“フォーマル”よりも“皮肉”とか“ユーモラス”とかいう言葉がお似合いだろう。
時間が緩急自在にデザインされたそのBGMの膨張を眺めている間に9分もの時間が経ち、終いには宇宙までも連想させる“大袈裟な”サウンドに呑み込まれる。
私は音が空間を侵食していく瞬間を体験した。
モデルの足取りは音楽に合わせてクィックもしくはスローに操作され、それにより態度にまで緩急が付いているかのように見える。空間に存在する全ての物質を思いのまま変幻自在にするそのサウンドデザイン、いや、サウンドスケープに呑まれた私、そして私を呑んだその景色ごと全てが私だけの記憶へと変換された。
音楽は時間軸上の芸術だと捉えられることが一般的であり、私もそう思っていたが、あのBGMは間違いなく空間軸に干渉していた。音・音楽が映像よりも印象への影響が全面的に優位だということは科学的に証明されている。
私はまずこのBGMに導かれ、結果としてショーを凝視することとなった。音楽に映像が同期しているため、時間的(構造的)調和も増大している。
“ジェレミー・ヒーリー”という名のテクニック
Maison Margiela Spring-Summer 2020 ‘Défilé’ Co-ed collection by John Gallianoのクレジットを見ればアレンジメント(Arrangement)としてジェレミー・ヒーリー(Jeremy healy)の名が記されている。
ロンドン出身のヒーリーは、1980年代に飛躍したインダストリアル・ポップデュオHaysi Fantayzeeの創設メンバーであり、ファッションと音楽の辻に立つ、世界で最も影響力のあるクリエーターの一人である。
彼こそがマルジェラの、あの音の、あの景色の担い手。
ある意味シュールレアリスム的なそれは彼によって緻密に創り込まれたものだった。このコレクションには彼の手によって装飾、整理、編集、その全ての意味を成すまさに“アレンジメント”が施されていた。
一曲目は“ジョン・ガリアーノ”
ジョン・ガリアーノ(John Galliano)とジェレミー・ヒーリー(Jeremy healy)の出会いは1985年の2月、ジョン・ガリアーノが自身の名を冠したブランドの初コレクションとなる1985/86 AW Collectionを披露したブリティッシュ・ファッション・ウィークにて。
そのショーでモデル出演することが決まっていたヒーリーのガールフレンドは、彼に延々とそのコレクションの話ばかりしていた。ヒーリーの興味は全く沸いてこなかった。にも拘らず結果的に彼女はそのショーにヒーリーを招いた。
2分半の短すぎるショーだった。
ヒーリーはそこで、木の下駄を履き、髪の毛には草を装飾して、死んだサバを振り回しながらランウェイに登場する彼女たちを目の当たりにした。更にその“死”を客席に投げつけるモデルたちを目撃していた (体験した)。
なんだよこれ、とヒーリーは開口してしまった。“ゴックンした。口が垂れるような感じになった”と話している。
彼の目前に押っ立つモデルはまるで『Star Trek』(1966-)のミスター・スポック(Mr. Spock)のような形相だったそうだ。
ガールフレンドの話を“聞いてもいなかった”ヒーリーであったが、たったの2分半にしてジョン・ガリアーノ (本人、あるいは本人の名を冠したそれ) に魅了されてしまった。“百聞は一見に如かず”とは良く言ったものだ。名言かつ明言である。
慣習の奴隷的思考を持たず、常に好奇心を張り巡らせていたためにフリーで柔軟な感受性を持ち合わせていたヒーリー。“ジョン・ガリアーノ”を文字通り感受し、興味は掻き立てられ、ガリアーノ本人に一目会いたいという衝動からバックステージへ向かった。
騒然とするバックステージ、目に飛び込んでくるガリアーノ。すると、驚くべきことにガリアーノの側からヒーリーに近づいてきた。
ガリアーノは「あなたのことを知っています、あなたの仕事も知っています、私と一緒に仕事をしてくれませんか?」とヒーリーをスカウトした。
なんだよそれ。ヒーリー、本日二度目の“ゴックン”。もちろん勧誘を承諾した。
ガリアーノのこの一言こそヒーリーがショーDJを始めるトリガーとなった。
Maison Margielaへと紡がれるDIOR
2人が仕事を共有するようになって10年ほど経過した1996年、ガリアーノがDIORの主任デザイナーに就任。
ガリアーノがスキャンダルと退任に見舞われる2011年までの15年間、ガリアーノは主任デザイナーを、ヒーリーはショーのサウンドデザインを手掛けた。
ヒーリーとガリアーノ、DIOR時代の2人は共に“ハイ”カルチャーと“ロー”カルチャーの融合に魅了されていた。
ガリアーノは、フランスの伝統的なメゾンとして佇むDIORに、モダンでグローバルなポップカルチャーを渾然と融合させ革命を起こした。エクストラバガンザ・スタイルだ。
エクストラバガンザ (Extravaganza) 最大の特徴は“構造の自由さ”である。通常はバーレスク、パントマイム、ミュージックホール、パロディの要素を含む文学的または音楽的な作品(音楽劇等)におけるリバティーなスタイルを指す。
高級芸術対あからさまな大衆芸術 (商業主義)、洗練対怒り、大劇場と倦怠感。
ガリアーノがDIORに君臨していた歴史の中で、多くのオーディエンスを魅了し、激怒させ、困惑させてきたものこそこれらの相違点や要素を融合させたエクストラバガンザだった。
ガリアーノのエクストラバガンザを受けたヒーリーは、ショーで使用するミックスに折衷的なスタイルを反映させた。「例えば、ブリトニー・スピアーズとクラシック音楽を組み合わせることもあった」とヒーリーは言う。
2人は、無秩序で露骨なストリートからノーブルな美術館まで、あらゆる場所にアイデアを見つけることができると信じていたのだ。
DIOR Fall 1999 Couture、ガリアーノが仕込んだ少量のミリタリー要素を加味し、映画のサウンドトラックとヘビーなビートをミックスしたかったヒーリーは、スタンリー・キューブリック (Stanley Kubrick) の戦争映画『Full Metal Jacket』(1987) のクリップ (入出力音が大きすぎることで、割れてしまった音) を使った。
リリースされたばかりのレフトフィールド(Leftfield)の『Phat Planet』(1999)も入れて、マライア・キャリー(Mariah Carey)とホイットニー・ヒューストン(Whitney Houston)の『When You Believe』(1998)とミックスした。更に、マドンナ(Madonna)の『Beautiful Stranger』(1999)をインダストリアル、テクノ、トランスの曲とミックス。間奏には世界で最も有名だった携帯電話のメーカー、Nokiaの着信音も入れた。
ダンスミュージックばかり“やっていた”ジェレミーのスタイルの幅を広げたのは紛れもなくガリアーノだろう。
2011年、DIORの王ジョン・ガリアーノはスキャンダルを捏造され、解雇された。ほぼ瀕死状態での生前退位だった。
それから4年後の2015年、ガリアーノはマルジェラ (当時のブランド名はMaison Martin Margiela、ガリアーノ就任後Maison Margielaに改名) の主任デザイナーに就任する。
ガリアーノが脱構築したMaison Margielaの破壊と再生(≒脱構築)
マルジェラのそもそものアイデンティティは、あのシンボル的タグから窺えるアノニマス(匿名性)、そのアノニマスの自由さによってモノの本質を知らしめることだけではない。
クラシックをベースとし、それをカジュアルに崩すことによる“脱構築”もブランドアイデンティティのひとつだ。
しかし、当時のマルジェラにはクラシカルで比較的保守的なリアル・クローズ (現実性のある服=実用性のある服) が多かった。
現状を破壊し、マルジェラ本来のエートスを再生するためには“装飾”が必要であったと言える。
破壊と再生。
マルジェラのそれを再興(もしくは脱構築)すべく君臨したのがかつて“鬼才”と謳われたガリアーノだった。結果としてガリアーノはマルジェラに、アヴァンギャルドとファンタジー、それら要素が複合することによる“脱構築”を齎した。
破壊は、バランスをも生み出す美しい衝動。2015年以降、ガリアーノによるマルジェラはまさに、ブランドの伝統的な物語(過去)を破壊し、再生し続けている。
モダンとクラシックを行き来することでその境界を曖昧にし、多動な“匿名”の未来を約束する。
ガリアーノのマルジェラ就任は、彼の第一線復帰を華々しく“装飾”し、彼自身とブランドの両者のエンパワーメントを解放した瞬間だった。ヒーリーもそれに応える様に、忙しいサウンドでショーをアレンジメントしている。
これを踏まえた上でMaison Margiela Spring-Summer 2020 ‘Défilé’ Co-ed collection by John Gallianoのコレクションピースを鑑賞してほしい。
ジョン・ガリアーノ特有の技法、ベーシックアイテムを解体・再構築する“ノマディック・カッティング”や、再利用を意味する“アップサイクリング”といった概念に形作られたアヴァンギャルドなシルエットが印象的だが、よく見れば誰にも馴染み深い、あるいは誰もが懐かしいと感じる“ユニフォーム”ばかりがベースとなっている。
テーラリングジャケットやトレンチコートなど、クラシカルなベーシックウェアを破壊し再生(≒脱構築)している。
そしてそれらコレクションピースの鑑賞者の脳に、その鑑賞者自身の“記憶”として保存させる“適切な”サウンドが宛がわれている。まるで音ハメだ。
ファッションショーにおいてまず第一に服が重要なのは当然だが、そのショーを忘れられないものにする秘密の材料は“適切な”サウンドだろう。
ショーは如何にして記憶へと変容するか
2018年、BALENCIAGAのショーBGMにはマッシヴ・アタック(Massive Attack)の1998年リリース曲『Angel』(1998)が含まれていた。
ストライプシャツ、ペンシルスカート、Tシャツ、ユーティリティジャケット、ネグリジェ、タータンチェック。至って“普通”の服が多い印象のコレクションだった。
ハイブランドの品も実は普通の服。普通の服も配置次第でハイブランド品に成り上がる。フェイクもバレなければリアル、リアルもしくじればフェイクに成り下がる。20年前からある普通の服も、スマートで知識が豊富な現代人が着ればニュー・トレンド、その逆も然り、クラシック。
その全てを1998年にリリースされたクラシック、いや、モダンなサウンドで印象付けたのだ。
因みにBALENCIAGAのクリエイティブ・ディレクターを務めるデムナ・ヴァザイア(Demna Gvasalia)の出身は言うまでもなくマルジェラだ。
ブランドネームではなく服単体で評価すべきだというマルジェラのアノニマス精神、そして既成概念の脱構築という“コンセプト”をしっかりと“脱構築”しているようにも思える。
齎し齎される破壊と再生(≒脱構築)のパラドックス
音楽はショーを引き立て、定義づけるものであり、服に色を与えるものだとジョン・ガリアーノは話す。そしてアレンジメントを手掛けるヒーリーはいつでも、本質であるジョン・ガリアーノを“聞いて”、ショーのためのミックスを制作するという。
ヒーリーにとってはジョン・ガリアーノ本人も服も概念も、その全てがショーに欠かせない。
そして鑑賞者は、ジョン・ガリアーノにぴったりとハマるサウンドをジェレミー・ヒーリーに観せつけられる。客観的であるはずのそのショーが、各々の主観的な記憶へと変容し保存される。
客体と主体の境界が曖昧になるその瞬間、あなたも“破壊と再生(≒脱構築)”を経験するのだ。