「ロケ地を訪ねて」 (石川・能登編)
埼玉・寄居、熱海、真鶴と続いて、今回は石川県・能登のお話。
2024年元旦、能登半島地震が起きました。 震源から離れた金沢にいたが、かなり激しく揺れた。
実は、能登は俳優を志すきっかけになった場所。僕の芸名は、舞台のエキストラで通っていた能登演劇堂のある中島町で見た夜空の星がきれいだったこと。そして、俳優になりたいと伝えられないまま急死した父の戒名のひとつである「星」をいただいてつけている。
羽咋市(はくいし)では映画『地球星人(エイリアン)は空想する』の撮影でコスモアイル羽咋でお世話になり、珠洲市(すずし)には「すず里山里海映画祭」や自主制作映画を何度か撮りに行った。
富来町(とぎまち)の増穂浦海岸(ますほがうら)も撮影のときに泊まった「シーサイドヴィラ渤海」から直接つながる海へ行った。目の前に広がる景色は最高だった。
恋路駅にあるトンネル貯蔵酒でも有名な宗玄酒造の方にも撮影のときにお世話になった。 他にもある能登の酒造は地震で壊滅的な打撃をうけてしまった。
これから記すのは、僕が珠洲市に災害支援ボランティア活動に行ったときのこと。 当時、思ったことなどを記しているが、現在は改善されていたり、変化している部分もあることをご留意願いたい。
3月初旬、僕はボランティア活動に行った。
能登への道は、その地形上あまり多くなく、支援物資の運搬、水道管や道路復旧作業や警察車両も入り混み合っている上に、道路の亀裂が多く、パンクなどして立ち往生する可能性も高いことから、ボランティアは能登へ向かうことを控えるムードがあった。
僕自身も、能登の生活インフラなどの復旧が落ち着いてから、とボランティア活動は控えていた。
しかし、能登へ行ったアーティストの松本一哉さんが僕に会いに来てくださり、「被災地へ行くことへの自粛ムードがあったけど行ってよかった」と仰った。その話をきき、自分も行こうと思った。
松本一哉さんのその姿勢やお言葉には感謝をしている。
ボランティア活動の手順としては、まず「石川県県民ボランティアセンター」での事前登録をした。そして、ボランティア活動保険へ加入。
この保険は毎年4月1日~翌年3月31日午後12時(24時)の1年間が補償期間で、中途で加入の場合でも3月31日で補償は終了する。(※翌年は4月1日からの更新が必要になり、加入手続き完了の翌日午前0時以降の活動が補償対象になるのでギリギリの前日登録などは注意)
ボランティア活動当日、 早朝5時半に東京から来てくださった俳優・アライジンさんと合流し、借りてきた僕の母の車で珠洲へ向かった。のと里山海道を走る。かなり混雑すると聞いていたが、平日なのもあってかスムーズに進んだ。 ただ進むにつれて、道の凹凸や亀裂が目立つところが増えて、徐行がたびたび必要だった。これはたしかにパンクしてもおかしくない。
「越の原IC」からは通行止めのため、降りて穴水方面へ。 ここからが大変だった。 穴水・珠洲方面へ行く道が限られているため、各地からの車で大渋滞になりなかなか進まない。車窓から見る景色は金沢ではなかった地震の残酷さだった。 (※金沢でも一部酷い場所はある)
応急危険度判定(被災した建物の二次災害が起きそうかどうか)の紙が貼られている。黄色(要注意)と赤色(危険)ばかりの建物が並ぶ道をゆっくりと進む。(※「危険」という判定は建物の「全壊」や「半壊」などを示しているわけではない)
珠洲では水道の復旧が全然進まないため、トイレなどは使えない。手前にある能登空港の駐車場のトイレに行くと、全国からたくさんのパトカーが集結していた。二人してその光景にびっくりした。結局金沢から約4時間かかって珠洲に到着した。集合場所は車でいっぱいのため、「古川商店」というパン屋さんの駐車場に停めた。ここは有名なパン屋さんで僕も買いに行ったことがある。
古川商店さんに挨拶をすると、地震のために倒れていたとても重い鉄製のラックをアライジンさんと手伝って起こした。(※後日、なんと金沢に古川商店さんが御礼を言いにいらっしゃった)
石川県のボランティアは登録している活動希望者が多く、抽選になることがほとんどだった。しかも珠洲という場所の地形上、行き来に時間がかかるうえ宿泊できる場所がなく、日帰りになってしまう。
僕とアライジンさんは「ボラキャンすず」というところにも登録した。これが当時珠洲での活動に特化していて、モンベルなどの協力のもと鉢ヶ崎オートキャンプ場に泊まれる環境を準備していたので宿泊して活動できた。
ボランティアセンターに着いてはじめの活動は津波によって使えなくなってしまった家具や、廃棄物になってしまった家財を拾い、分別するという作業だった。(こういった活動には必ずその家主が立会う)
道中、今にも崩れてきそうな家がたくさん視界に入った。とても酷すぎる景色が続いているのに、だんだん慣れていく自分が少しこわくなった。
一つわかったことは、すぐにでも活動しなきゃいけない家がたくさんあり、ボランティアも比較的多く(その日は100名くらいで数人のグループごとに活動していた)いるのに、なぜ何もされないのか。
そもそも「家主の立会い」がなくては活動ができない。立会う人が少ないから活動できる家も少ない。なぜか。
それは、立会うはずの家主が珠洲から離れたところに避難しているからだ。復興が進まない理由の一つかもしれない。そんな状況に、アライジンさんはオンラインツールで、ライブ実況みたいに家主に見てもらうアイデアを出していた。それは確かにいいアイデアだと思う。実現したら離れている家主もリモートで指示を出すことができる。
1日目の作業が終わり、キャンプ場へ。
3月初旬、季節は春とはいえかなり寒い。
キャンプ経験があまりないためテント泊はかなり心配だったが、電気が使えるので、それぞれに寝袋、電気ストーブなどを貸してくださった。
トイレは簡易トイレだが、ガスコンロ、Wi-Fi環境もあり、僕個人の感想としてはかなりよかった。(この充実度でひとり一泊500円はかなり助かるし、ゴミ袋も支給。出たゴミを捨てていってもいいよと説明を受けたが、さすがに持って帰った)水道の復旧がほぼ進んでいない珠洲なのに、順番で入場制限はあるものの、なぜか銭湯に入れた。聞いた話だと独自に井戸水をひいていたらしい。でもトイレはやはり使えず駐車場にある簡易トイレを使用しなければならない。大きな施設などがある駐車場や避難所には簡易トイレがあるが、僕たちもボランティア活動の場所によっては近くにトイレがないため、大変だった。
2日目は倒壊していた建物の瓦を外し、軽トラに積み、災害ごみの処分の仮置き場へと運ぶ作業。
僕もアライジンさんも同じグループで、3、4台の軽トラにペアになって活動した。 瓦だけではなく、木材なども分別して軽トラに積み、仮置き場まで、を何度も繰り返した。 たくさんの家具や木材などもひとつひとつ、立会いの家主さんに残すか廃棄かを判断していただき、危険に及ばない程度で運び出したりしていた。 倒れた家具などに埋もれた中から表札を見つけた。家主さんに確認をすると、表札を手に取り、少し見つめてから「もう、いいです」と言って僕に渡した。
その表札を軽トラに積むときの辛さは忘れられない。 活動時間が終わるまでこの作業をひたすら繰り返した。 家主はありがとうと何度も深々と頭を下げて、活動を終えて帰る僕たちを見えなくなるまで見送ってくださった。
バックミラーごしに見てもずっと頭を下げたままの家主さん。角を曲がるといろいろな感情が溢れて僕は泣きながら軽トラを運転した。
実際に現地に行くと、本当に大変なことだと実感した。 被災地の崩れた家、津波で水浸しになってしまった家、隆起したマンホール、珠洲の象徴とも言える見附島の形が変わった姿。ボランティア活動に向かう時や、活動が終わった後は、たくさん写真を撮った。
著名人などもそんな写真をSNSでアップしていて、震災の酷さを見せていた。彼らがアップすることで被災地への関心が生まれればそれはそれで大切ことだし、必要な役割を担っているとも思う。
僕もそうしようと思っていたが、写真を撮り、自分の目でそれを見ていると、SNSなどで不特定多数に見せられる、というのは「晒される」ことにならないのだろうかと思った。例えば自分の家、ひとつも被害を受けてなくても、いろんな人にカメラを向けられ、それをアップされたらイヤだなと思うだろう。偶然にも、崩れてしまった家の方がこのコラムを見たらイヤだろうな、辛いだろうなと思う。だから、ここで以前と変わってしまった姿の見附島は載せても、家とかは載せることをやめることにした。
(※これは写真を載せることに対しての批判や否定的な意見などではなく、僕個人の見解です)
各地で復旧、復興のためのクラウドファンディングをよく見るようになった。そうしなきゃいけないのか、そこに頼るしかないのか、国は何もしてくれないのか。
僕も映画でクラウドファンディングをお願いすることがある身で恐縮なのだが、僕自身は裕福でもなく、各地のクラウドファンディングに応えることができない。
その分、今後もボランティア活動で応えていくつもりだ。 そして震災の被害にあったのは能登だけではない。復旧、復興にはかなり莫大な時間がかかると思うが、各地の被災地に想いをよせながら、これからも少しずつ自分にできることをしていきたいと思っている。