BALENCIAGAを率いるデザイナー、デムナ・ヴァザリアの経歴と世界のクロニクル

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BALENCIAGAを率いるデザイナー、デムナ・ヴァザリアの経歴と世界のクロニクル

BALENCIAGA(バレンシアガ)のアーティスティック ディレクターであり、Vetements(ヴェトモン)の創設者であるデザイナー、デムナ・ヴァザリアが2021年9月27日、自身の母国であるジョージア(旧グルジア)のサロメ・ズラビシュヴィリ大統領から日本の国民栄誉賞に相当する名誉勲章を授与された。

アブハジア紛争のスフミ陥落の日である9月27日に「海外においてジョージアの文化の普及に貢献した人物」としてその功績を讃えられたのである。

デムナ・ヴァザリアは旧ソ連・グルジアのスフミに生まれた。スフミは1989年に勃発したアブハジア紛争の主たる戦場であり、またグルジアは1991年の崩壊までソビエト連邦の一部だった。

砲撃に砕かれるこの地で、そしてレーニン主義、スターリン主義、共産主義的と“左右する”思想の中で育ったデムナは、あらゆる真実と情報を奪われながら幼少期を過ごした。

ソビエト連邦が崩壊し、グルジアが開国したときのことを「爆発のようだった」とデムナは回想する。(2023年3月1日 SSENSE – The Vetements-Balenciaga Complex)

ファンタやコカ コーラと共に、VOGUEが流れ込んできたのである。そしてそれらよりまず先に、西側から来た最初の文化がマクドナルドだった。

マクドナルドで誕生日会が出来る人、出来ない人

当時、スフミの子供たちが思う最もクールなことといえば、マクドナルドで誕生日パーティーをすることだった。デムナもそこで誕生日を祝ったことがあるらしい。カラフルな空間で振る舞われるハッピーミールは実際に人々を幸せにしていた。

少年デムナにとってのマクドナルドでの誕生日会は、大人になったデムナの価値観で言えばパリのキャビア専門店、Caviar Kaspia(キャビア カスピア)に行くことに値する。相当にクールな体験だったのだろう。そんなデムナはVetementsの2020SSコレクションを、パリ・シャンゼリゼ通りのマクドナルドの店内で発表した。

デムナは2020年にVetementsを退任するため、マクドナルドで腕を振るったこれが自身のブランドでの最後のコレクションとなったのである。

「ビックマック指数」とか言われるように、指標になるレベルでマクドナルドは経済そのものをメーカーにしたような存在であり、更に当時のスフミでは資本主義の具現のようだった。

あちこちから金持ちが子供を連れてきて、誕生日パーティーをしていた。ビッグマックを見たこともなければ、コーラを飲んだこともないデムナは、マクドナルドで自分のお祝いをしたいとずっと思っていた。そして今、惜しみなくそれができる。

マクドナルドでは、このようにして長い循環型経済が行われているのである。

消費能力が生産力の限界と同等の水準に達しても執拗に生産されるロゴ

デムナ・ヴァザリアは、その手法を自分のスタイルとしてものにする程に、また世間からもそう認められる程に、幾度となく企業のロゴや衣服の定型(制服)に干渉してきた。90年代のリバイバルかつ進化形として現行のロゴブームは、間違いなくデムナによって巻き起こされた。

Vetementsの名を世界中へ届けたDHLのロゴTシャツに始まり、Balenciagaの2017AWコレクションでは、ブランドを所有するラグジュアリーコングロマリット、Kering(ケリング)のロゴをプリントしたフーディを発表するなど、デムナは21世紀消費社会のシステムに踏み込み、遊びながら破壊する。

世界を席巻するポピュリズムやインターネット、そしてどこまでも満ち足りないファッション業界の利益追求型過剰生産による廃棄物の濁流。

衣服を媒介手段として、傲慢な満足しない主義≒資本主義を、デムナ・ヴァザリアは強調する。

路上に停めたトラックから降り、そして正面玄関からマクドナルドの店内に入ってきたモデルたちは、現在のこの街の人々、そしてデムナの幼少期の記憶の中にいる人々が混在していた。

白いシャツに「Global Mind Fuck」と刺繍されたタイを締めて、「Hello I am Capitalism」と書かれた会議のステッカーを胸元に貼り、真っ赤なMAGA*キャップを被っている男。

良く見ればMAGAキャップには「For Rent」と書かれている。ジャケットにも「For Rent」。

For Rent?

金のために単なる労働力とされることへの絶望や、人に影響されて借りてきた資本主義、資本を動かすことにモラルを感じない空洞化した男など、鑑賞者によって異なる、様々なメッセージにとれるだろう。

*MAGA・・・Make America Great Again(メイク アメリカ グレート アゲイン、日本語訳:アメリカ合衆国を再び偉大な国にする )=アメリカ合衆国の政治において用いられる選挙スローガン

制服=恐怖やパニックの象徴をミームに変換する

またロシア警官のワッペンを掲げる制服警察官のようなモデルもいる。

そしてこのショーが開かれたシャンゼリゼ通りは、2018年11月17日から断続的に行なわれている週末反政府暴動、ジレ ジョーヌ(仏: Gilets jaunes、黄色いベスト運動)によく使われる場所のひとつである。

しかしなぜデムナはパリではなくロシア警官を選んだのか?
言うまでもなく、デムナの中に残るソビエト連邦の記憶がそうさせたのだろう。

そもそも「Vetements」とは、フランス語で「服」という意味だ。
デムナは、野蛮なひねりとダジャレを加えてあるシステムの装いを模倣することにより、その皮膚に潜り込もうとする(そして内側から破壊=新しい捉え方を提案する)。

その装いとは、その皮膚とはつまり“制服”である。衣服自体が何らかの意味を内包しており、本人のことを知らなければ、その人が着ている服がメッセージとなる。

多様性の欠如した環境で多感な時期を過ごし、選択肢などなかった。
だからデムナはVetementsの創業時から、或いはそれよりもずっと前から、“制服”をデザインして、それをミームにしようと考えていたという。

デムナの創造性によって故意に改編された警察官、そして制服は彼が目指したミームそのものとなり狙い通り、はたまた皮肉にもバズマーケティング的に世間に増殖していく。

またVetements創業当初からデムナがやり続けたもうひとつのこととして、既存のものをリサイクルすることにより、多くのソースから切り出したものを一つの作品としてまとめる、ということがある。

いずれにしても、デムナはどの時代のどこであっても資本主義サイクルの中核にいながらそれを批判する。

状態と行動が常に両極化しているのだ。

生きるためにLouis VuittonやMaison Martin Margielaで働く

では、破壊者であり創造主であるデザイナー、デムナ・ヴァザリアはいつからファッション界のオペレーションシステム側へ回ったのか。

ソビエト連邦下のグルジアに生まれた彼は、グルジア人の父グラムとロシア人の母エルヴィラの庇護のもと経済学を学んだ。

銀行でキャリアを積んだ後、脱サラしてベルギーに渡り、アントワープ王立芸術アカデミーで紳士服のデザインを学んだ。

2006年に卒業した後、2009年にパリに渡り2013年まで、Maison Martin Margiela(メゾン マルタン マルジェラ)で働く。

そこではマルタン・マルジェラの技術的な熟練と脱構築的の哲学、衣服に焦点を当てた方法論を吸収する。ファッションにおいて、5W1Hといった概略に代表される一連の過程や活動、課題を包括するすべてを対象として分析し開発するのである。

その後、Louis Vuitton(ルイ ヴィトン)でマーク・ジェイコブスと元Balenciagaのデザイナー、ニコラ・ゲスキエールのもとで一年間働いた。

「Louis Vuittonで稼いだ金を資金として、他のメゾンで働いていた友人たちと共にVetementsを設立した」とデムナは話している。

デムナが貯めた金で創設した会社だから、デムナがVetementsの代表となったらしい。
悪い言い方かも知れないが、かのLouis Vuittonをこんな風に、文字通りの踏み台にした人物が今までにいただろうか?

パパのお下がり

パリのマレ地区で発表された2014AWでVetementsはデビューした。
この初めてのコレクションから、異様に長い袖や外に広がる肩幅など不自然な(今となっては自然な)オーバーサイズ、奇妙な(今となっては俗な)プロポーションのデザインが見られる。

ではデムナがこのシルエットを手に入れたのはいつなのか?
遡ってデムナ・ヴァザリアが11歳のとき。彼は自分が死ぬと確信していた。

1991年のソビエト連邦解体から約1年後、グルジア人と同国北西部の紛争地アブハジアの人々との間で民族紛争が勃発した。

戦争初期、アブハジア軍はデムナの故郷であるスフミに上陸し、黒海に面した亜熱帯の観光地を破壊し尽くした。

数ヶ月間、毎晩7時が来れば空襲警報が鳴り響く。

自動車修理工場を経営する父と主婦の母、弟、叔父夫婦とその子供4人、父方の祖母らとともに地下のガレージに潜り、爆発する砲弾の雷を紛らわすためにデムナは音楽を演奏した。

デムナとその家族は、この地域が瓦礫と化す前に、わずかな必需品を車に詰め込み、親戚のいる首都トビリシへ避難することにした。

車で行ける所まで行き、そこから先は持てるものを持って歩き始めた。

その頃のデムナは、家族のためにミュージカルを上演したり、祖母にファッションのアドバイスをしたり、ミス ユニバース コンテストの出場者の絵を描いたりするのが好きな、気の良い少年だった。

毎日村から村へ移動し、屋外や廃車のトラックの荷台で寝泊まりした。
そんな風に苦境を踏みしめて明日へ進み続けていたデムナ。

ある夜、元兵士の父が叔父に向かって「もし自分が人質に取られたらどうするか」を説明しているところに居合わせた。

父は「捕まって拷問されるくらいなら、自分や息子たちを殺したほうがマシだ」と言った。
そんなことをするはずも、する気もないだろうと解っていながら父親を怖いと思った。

それでもデムナは約三週間歩き続け、無事にトビリシに到着した。無一文だった彼は、父のお下がりのジャケットを着て、シャツの袖を指の先までぶら下げていた。

これがデムナ・ヴァザリアを象徴する「オーバーサイズ」の起源である。
そしてVetementsとは、デムナのそういう思い出やコンプレックスの塊である。

ミッドセンチュリーの貴族の、クリストバル・バレンシアガのBALENCIAGA

Vetementsデビュー翌年の2015年。

Jacquemusのサイモン・ポート・ジャックムスやOff-White c/o Virgil Ablohのヴァージル・アブローらと肩を並べて、LVMH(モエ ヘネシー ルイ ヴィトン)グループが主催する若手ファッションクリエーターの育成・支援を目的としたファッションコンテスト「LVMH Young Fashion Designers Prize」のファイナリストにデムナもノミネートした。

この時に発表した2016SSコレクションでDHLのロゴTシャツが登場。Vetementsが誕生からたったの二年余り、4回目のコレクションで絶賛を浴びたのである。

その数日後、2015年10月7日にBalenciagaのアーティスティック・ディレクターに就任。

多くの人が「Vetementsの激しい革新的姿勢から、Balenciagaのような“社会”にシフトできるのか?」とデムナに対して疑問を抱いていた。

しかし、誰も知らないところで彼は理解していた。

Balenciagaの魅力は、間違いなく“クチュール”という考え方であり、彫刻のようなフォルムから漂うエレガンス、そしてクリストバル・バレンシアガが持っていた美のアイデア。それら全て、デムナがVetementsでは決してできないことだった。

クリスチャン・ディオール曰く、クリストバル・バレンシアガは「我々全員の師」であり、またマドレーヌ・ヴィオネは彼が作ったローブを死ぬまで着ていたと言われている。

デムナは彼のデザインの方法や服の作り方について描かれたドキュメンタリーを見たり、本を読んだり、白いキャラコの衣装バッグに入った創設者によるアーカイブ作品に浸ることでクリストバル・バレンシアガを解釈した。

VetementsとBalenciaga、デムナ・ヴァザリアとクリストバル・バレンシアガの唯一の共通点は、型にはまらないシルエットやフィット感(フィットしない感)を愛してるということだろう。

クリストバル・バレンシアガは、切りっぱなしの襟で首を伸ばし、クロップド丈の袖で手足を細くするなど、多くのことをやってのけた。

バレンシアガの作品は、着ることで身体を変化させる衣服。つまり、衣服が内側の形の再定義を助長するのである。

VETEMENTSのデムナ・ヴァザリアのBALENCIAGA

Balenciagaが、2016AWコレクションのヴィジュアルを公開した。これがデムナ・ヴァザリアがBalenciagaにて初めて手掛けたキャンペーンとなる。

キャンペーンヴィジュアルの舞台はBalenciaga、そしてVetementsが拠点を置くパリのストリートだった。

1990年代にMaison Martin Margielaのコレクションを撮影していたマーク・ボスウィックが、デムナのBalenciagaを着用した街行く女性たちを撮影。

スタイリングは、同年Vetementsのショーにも登場したモデルのロッタ・ヴォルコヴァが手掛けた。

創業者であるクリストバル・バレンシアガの死後に低迷し、ニコラ・ゲスキエールやアレキサンダー・ワンといった敏腕に託しても、どこか過去に取り憑かれていたBalenciaga。

しかし影響的破壊者デムナ・ヴァザリアによって、このブランドはコンテンポラリーに生まれ変わったのである。

デムナ・ヴァザリアは新しいものを生み出すために、洗練された、貴族的なミッドセンチュリーに対する先入観の縫い目を解き、ラグジュアリーストリートを構築した。

世界とデムナ・ヴァザリアの関係性(歴史)

20年以上前にクリストバル・バレンシアガがデザインし、バッグ史上の最大のヒット作となったClassic(クラシック)を、デムナ・ヴァザリアがリデザインしたNeo Classic(ネオクラシック)。

長いレザーストラップとスタッズがついたラムスキンの柔らかいこのバッグは、今のBalenciagaを代表するアイテムとなった。

そしてダッドスニーカーは、デムナ・ヴァザリアのTriple S(トリプルS)が火付け役となって流行した。
ランニングシューズ、トラックシューズ、バスケットシューズの3つのソールを組み合わせたトリプルソールのスニーカーだ。

なぜダッドスニーカーと呼ばれているのか?そう、Dad(パパ)が履いていそうだからである。

フィールドがどこであろうと、デムナ・ヴァザリアを取り巻く世界こそが、デムナ・ヴァザリアに世界を作らせ続けているのである。

2023年、ジェネレーティブAIが駆け回るこの時代ではどうだろう。YouTuberのdemonflyingfoxが3月15日にYouTubeにアップロードした「Harry Potter by Balenciaga」を見ればそこに答えがある。

きっとBalenciagaはこの先も、思いつく限りのあらゆるトレンドと融合し、世界を学習し更新していくだろう。

デムナ・ヴァザリアはその基幹システムそのものである。


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