モノローグばかりのロードムービーみたいに
「映画を撮りたい」と、島根という田舎から上京して14年。僕が監督した映画が劇場公開された。『クレマチスの窓辺』という作品である。撮影は3年前だが、ありがたいことに、舞台挨拶などで作品と一緒に愛知、大阪、京都、福岡、鹿児島など全国の色々なところに行けた。
そこでの出来事、出会ったものについて、ちょっとした旅行誌のような、ポップな紀行文のように書こうと思ったが、その時頭の中に浮かんだ映画や小説、音楽の断片などを書き連ねてしまった。
まだ、この旅の途上だが、ひとまずの区切りとして鹿児島公開までの記録にする。
『クレマチスの窓辺』 公式サイト🔗
セリーヌとジュリーは舟でゆく 渋谷にて
『クレマチスの窓辺』は、4月に東京のヒューマントラストシネマ渋谷で封切りされた。1週間の短いレイトショーだ。記憶が正しければ、『寝ても覚めても』(濱口竜介/2018年)と『スパイの妻』(黒沢清/2020年)をここで観た。
公開前に劇場に行くと、2022年アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介/2021年)のポスターの横に、『クレマチスの窓辺』が貼られていた。自分の作品が公開される実感が湧いてきた。
舞台挨拶は最初の二日間だったが、1週間、僕は毎日劇場に行った。二日目は100人以上のお客さんの拍手の中、キャストと共に舞台に上がった。こんな立派な劇場で公開されたことに感動した。久しぶりの再会があったり、思わぬ人が来てくれたり、あともう1週間あればもっと良かった。
実は、これ以外にも感動があった。フランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家で「魔術師」と呼ばれたジャック・リヴェットの特集上映と公開初日が被ったのだ。僕が上京したての頃に観た『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年)は衝撃的で魔法のようだった。そんな映画と並ぶことが出来たのは本当に光栄だった。きっとまだ、リヴェットが掛けた魔法は解かれていないのだろう。
鏡の女たち 愛知県名古屋市にて
愛知県では、5月7日から1週間、名古屋シネマテークで公開された。シネマテーク(Cinémathèque)という名前がフランスの映画アーカイブ、シネマテーク・フランセーズを思わせる。
愛知には仕事でもプライベートでも何度か訪れている。『クレマチスの窓辺』の最初の上映も大府市で開催されたおおぶ映画祭だった。
20歳の時にカメラマン志望だった愛知出身(一宮市)の友人を、白血病で亡くした。病院へのお見舞い、葬儀、その友人の実家に線香を上げに行った。そんな思い出がある。
名古屋シネマテークは、40席程の老舗映画館だが、数々の映画スターや監督のサイン色紙が飾られており、そこが由緒正しい場所だと背筋が伸びる。錚々たる名前の中で目を引いたのは、吉田喜重・岡田茉莉子夫妻のサインであった。2002年と書かれてあり、おそらく松竹ヌーヴェル・ヴァーグ最後の作品『鏡の女たち』(吉田喜重/2002年)のものだと推察した。もし21世紀以降の日本映画で一番何が好きかと訊かれたら、これになるかもしれない。支配人の永吉さんは、喜重さんと岡田茉莉子さんのトークイベントの時が一番緊張したと話していたのが印象的だった。
ちなみに上映後、出演者の瀬戸かほさんと小山梨奈さんと即席のサイン会をした。
EUREKA 大阪と京都にて
愛知の後は、5月27日から1週間、大阪のシネ・リーブル梅田で、6月3日から1週間、アップリンク京都で公開された。その間、僕は大阪と京都に滞在した。
シネ・リーブル梅田では、地元の同級生や関西に住む親戚、大阪に移住した『クレマチスの窓辺』でヘアメイクだったほんださんも来てくれた。
渋谷ではリヴェットだったが、梅田でもとんでもない作品と公開が被った。2022年3月に亡くなった青山真治監督の代表作『EUREKA』(2001年)の追悼上映だ。渋谷での公開の準備をしていた3月、青山さんの訃報を読んだ。2000年代に10代を過ごした世代的に、『Helpless』(1996年)、『EUREKA』、『サッド ヴァケイション』(2007年)と連なる、所謂「北九州サーガ」にはとても影響を受けたし、映画学校では友人たちとよく青山作品の話をした。
大阪では、梅田や中之島、心斎橋や天満の街を歩いた。天満の夜の街は90年代の香港映画のような活気と猥雑さで、目に新しかった。
京都の激安ゲストハウスに6泊して京都の街をひたすら散策した。有名な観光地は避け、特に目的地を定めず、ぶらぶらと毎日20キロくらい歩いた。東山の満願寺に分骨された溝口健二の墓所や、嵐電に乗って太秦にある大映京都撮影所跡地などを見に行った。
2021年末に祖母が亡くなったこともあり、一応家が浄土真宗であるため、その総本山に行った。本願寺派の西本願寺(本願寺)と大谷派の東本願寺(真宗本廟)の本堂はどちらも巨大で荘厳だった。そして、本尊の阿弥陀如来像に手を合わせた。どちらも、死と生の近さ、死者との近さを感じた。『クレマチスの窓辺』では、主人公の亡くなった祖母が話に関わってくる。姿は見えないけれど、そこにいるかもしれないというように撮影した。
たまたま三条大橋の近くで見つけた、ひと際目立つ「ユーミンバー」と書かれた看板に抗うことができず、その店に入った。そこは延々と松任谷(荒井)由実の曲が流れ、彼女の曲名のカクテルがメニューに並ぶ。僕は「ひこうき雲」「中央フリーウェイ」を頼んだ。そういえば、『クレマチスの窓辺』のメインロケ地(亡くなった祖母の家)では、ロケハン時、よくユーミンのレコードが掛かっていた。もしかしたらそれが決め手になったかもしれない。
南國再見、南國(憂鬱な楽園) 福岡と鹿児島にて
7月には東京の高円寺シアターバッカスと兵庫のシネマ神戸での公開があった後、8月9日の1日だけ、福岡のKBCシネマで上映された。小学校の修学旅行以来、約20年ぶりだった。
KBCシネマでの上映は質疑応答もあり、雰囲気は良かったように思う。観に来てくれた方がガイドを買って出てくれたおかけで、名物のもつ鍋を食べた。博多の街は食欲をそそる看板ばかりで、ここは誘惑の魔の地だと感じた。そのおかげか、中洲の屋台が夜中に人知れず撤収するのを見届けることができた。
9月10日の鹿児島ガーデンズシネマでの上映も1日だけだった。鹿児島は別の短編で参加した指宿市で開催のいぶすき映画祭以来、4年ぶりだった。そこでの様々な出会いが縁となり、『クレマチスの窓辺』を鹿児島市のガーデンズシネマさんで掛けていただくことになった。
上映後にとても多くの話ができたし、面白い質問や鋭い指摘もあった。こうして色々な地を巡り、色々な人と話せば、後々にも繋がっていく。
『クレマチスの窓辺』で衣装を提供していただいた鹿児島の古着屋さんの上福元さんに桜島を案内してもらい、林芙美子文学碑を見に行った。そういえば、林芙美子の小説「浮雲」は、長い旅の末に鹿児島で終わることを思い出した。ちょうどその時に火口から黒煙が噴き出し、火山灰が降ってきた。僕らは逃げるように、灰で汚れた車の中に乗り込んだ。
鹿児島には「南国」という言葉が入った会社やビルが多い。台湾映画の『憂鬱な楽園』(侯孝賢/1996年)の原題は、「南國再見,南國」だったと思い出した。日本語に直すと「南国さよなら、南国」となると思うが、「再見」は「またね」だろう。
映画はどんなところにでも連れて行ってくれる。そこで色々な人に会い、また再会し、発見があり、振り返ることができる。
鹿児島・羽田便の飛行機の中で、「再見!」と心の中で言ってみた。