映画館でスマートフォンを見てしまう人たち ー映画を「感じられない」ということ

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映画館でスマートフォンを見てしまう人たち ー映画を「感じられない」ということ

最近、上映中にスマホを見る、会話をするなどの映画館でのマナー問題が、SNSで取りざたされるようになってきた。

マナーの悪い観客のせいで映画を楽しめなかった時、鑑賞後にふつふつとした怒りが沸き起こってくる。あまりにも目に余った時は、注意したこともある。けれど彼らは大抵、口先ではすみませんと謝りながらも、本心では謝ってない。映画鑑賞を邪魔してしまって申し訳ない、という気持ちがなく、自分がなぜ注意されたのかもおそらくあまり理解していない。

彼らが映画館にわざわざ来て映画を観るということを不思議に思ってしまうのだけれど、自分とは違う考え方を持った人たちなんだな、と諦観してしまい、それがいつしか癖になっていた。

昨今のSNSではしばしば「映画館でスマホを見る人たち」の話題が上がる。観客のマナーを憂うツイートも散見され、定期的に映画館でのマナー問題が議論されるようになった。

彼らを頭ごなしに声を荒げて批判するのは少し違う気がする。そもそもなぜ、映画館でスマホを観たり、鑑賞中にお喋りをしたりしてしまうのか?
私には理解できないことだけれど、きっと彼らにしかない思考がある。あるいは、何かしらが彼らをそういう行動に導いてしまっている。

私は彼らの行動の理由に興味を持ち、それについて考えることにした。なぜ、映画館に来ているのに映画を”観る”ことができないのか?という点についてだ。
ためしに、Thinking(考える) / Feeling(感じる) という考え方をしてみる。

考える、という行為には脳を使い、思考を伴う。対して感じる、という行為は、肌で直接感じ、五感によって物事を捉える。

このふたつの行為に優劣はない。思考を伴うからといって、考えることの方が感じることより優れている、ということはない。時に人は五感が研ぎ澄まされ、それによって物事の側面や形を捉え、自分なりに受け止めることが可能な生き物だ。

現代を象徴する若者言葉として「エモい」という言葉がある。これはまさに、感情的に物事を捉えた場合に使う、「なんだかよく分からないけど心が動かされた」という状態を簡単に説明できる、魔法のような言葉だ。

試しにこのふたつの、短いMVを観てみてほしい。どちらも短いながら物語性が含まれている。このたった数分間の映像で、きっと多くの人は何かを感じ、心が多かれ少なかれ動かされることだろう。若者に言わせれば、十二分に「エモい」MVだ。

「エモい」。この言葉を使っている限り、人はちゃんと直感的に肌で作品を”感じる”ことのできる生き物なのだということを証明できるだろう。

映画はFeelingとThinking、どちらを用いても内容を解釈しながら楽しめる娯楽であり、同時に芸術である

映画を観る時に、難しく考える必要はない。どんなに哲学的な映画であろうとも、感じるままに観ることができる。受け止める側に多くの触れ方がある魅力こそが映画だと、私は思っている。

問題なのは、マナーの悪い観客の多くが、映画鑑賞において「感じる(Feeling)ことすらも放棄しようとしている」ことだ。

席に座って目の前のスクリーンに映し出される映像、そしてその奥にある物語を、肌で感じることすらも出来なくなっている。五感を手放し、最終的には身ひとつそのままの状態で映画を享受することも放棄してしまう。そしてやる事がなくなり、何も感じなくなった結果、別の娯楽やとりあえずの時間潰しに興じる。

理由の一端として、映画館という場所がもたらす制約に心的なストレスが関わっているのではないか、と私は考えた。家で配信サイトを使いながら観る映画は、固定の席がなく、場所に制限がない。途中で再生を停止して飲み物を取りに行ったり、言ってしまえば別の作業をしながら観たりも出来てしまう。その自由性により、2時間弱、ずっと映画を観続けるという決められた時間の制約も取り去られる。

実際にこのような声がある。

「家で映画を観るときもスマホを片手に、Wikipediaでストーリーや登場人物を確認しながら観る習慣がついている。そうでなくてもSNSに返信したり、別番組を観たりなど、必ず何かしながら映画を観ているので、そういったことができない映画館は、まあまあの苦痛です」

映画館はいったん席に座ってしまうと、家で映画を観るようにはいかない。”映画館で映画を観る”という”自由の制限”を課したはいいが、”便利な鑑賞スタイルに慣れすぎて耐えきれなくなる”という状態に陥り、鑑賞中にスマホをいじったり、友人や家族と喋り出してしまうという行為に及ぶ。周りに映画世界に没入している人がいたとしても、だ。

また、映画チケットを買う上での金銭的な部分にも、「1900円は高すぎる」という意見がある。

「今では1900円に値上げするシネコンも。鑑賞時にポップコーンやソフトドリンクを買うと、1回の鑑賞に3000円近くかかってしまう。動画配信サービスであれば月額1000円ほどで見放題だし、レンタルの場合も1回数百円で済む。優先順位の高い他の趣味にお金を使いたいので、あえて映画館を選ぶことは減りましたね」

実際の声からも分かる通り、わざわざ映画館に行きチケット代を払い映画を観る、という行為に抵抗を感じる若者も少なくない。

様々な条件下のなかにある映画館という場所と時間、そして金銭の鍵がかかったボックスの中で、作品を「考えられない」「感じられない」若者が激増している。それ自体を窮屈だと思ってしまう。せっかく与えられた機会を、面倒だと思ってしまう。「映画館に行って観よう」と感じた動機を、確かに心が動かされたはずのその衝動を忘れてしまう。

今はスマートフォンひとつあれば何でもできる時代だ。映画を気軽に視聴できるサブスクリプションサービスは日々最新作を配信し、それだけで余暇が事足りてしまう。音楽鑑賞、読書に至っても全てデバイスだけで済んでしまうし、SNSでは簡単に人と繋がり、そして別れることが出来る。いつでもLINEやTwitterで気の置けない友人たちと惰性的なやり取りをして安心できる。現実が厳しく生きづらいから、居場所を求め、人々はどんどんスマートフォンに噛りついていく。

娯楽の飽和状態。過剰な消費文化。忙殺される社会。承認欲求の行き場のなさ。精神的余裕のない毎日。

世の中を恨んでしまってはきりがないし、社会を非難するのは正しくないとは思う(個人の行為こそが問題である)が、マナーが悪いと批判されるような人々が映画館に頻出し始めた理由として挙げるのなら、納得がいく部分もある。

誰かが「映画館や本屋は廃れ行く運命だ」と嘆いていた。1日、また1日と、その実感は強くなる。今の時代が前進していく限り、どうしようもないのかも知れない。それでもそういった娯楽文化を心から愛する人たちは、今日も映画館や本屋に足を運ぶ。

映画を感じている人がいる。映画を考えている人がいる。今日観る映画で笑い、泣き、生きたいと思う人たちがいる。

今日はマナーの悪い人が隣や前の席に座りませんようにと、祈るような日が無くなればいいと思う。生きづらさに疲れ切ってしまっても、そこに行けば何かを感じられる場所として、映画館が最後まで人々のそばに在り続ける場所であってほしいと、私は願っている。


<エビデンス参考資料>
経済産業省 公式サイト
マネーポストWeb


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Ando Enu

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