“The movie is total art.”的、映画との向き合い方
「映画って、いったい何だっけ?」
そんなシンプルな質問が改めて頭の中をぐるぐるする。私はというと、普段は映像制作で飯を食い、映画で表現をし、映画祭で他の制作者の映画をここぞとばかりに鑑賞し、自分の立ち位置を見直す、という活動をしている。
このBLAZEVYというメディアでこのコラムを企画したのは、映画というアートのカテゴリーをもっと認知してもらいたいと思ったし、何より、映画から得られる体験を日常生活の糧にできないものか、と考えたからでもある。
糧ってじゃあ何さ、となるのだが、数々のアニメーション映画をはじめ名作を世に送り出した押井守監督曰く「映画は、人生の引き出しを増やす手法の一つ」。映画という、少なくともスクリーン上にある現実とは別軸での存在から、自分の日常だけでは得られない気づきを得るのだ、ということ。逆を言えば、人間は自分の知り得る世界だけで漫然と生きることは許されていないのだ、と。(本を読んでメモった)この考えを本で読んだ私は、とても腹落ちし、今に至っても映画からもたらされる発見とは、自分の範疇外からの「刺客」だと思っている。
同じようなことを、「ジャパンカッツ」というニューヨークで日本の作品を上映する映画祭のプログラムディレクターの渡辺さんもインタビュー記事で言っていた。「観客は、自宅やシネコンではできない体験を求めて映画祭に足を運ぶのだ」という。
注釈として、映画とは、シネコンで上映されているものが全てではない、ということを知っていただきたい。音楽みたく、映画にもメジャー、インディーズが存在し、シネコンで上映されているものは「映画」のもの凄く一部なのだ。
さて、
「映画って、いったい何だっけ?」
この問いは深くなるばかりだ。それは、1秒間に24枚の静止画からなる動画、とか、映画館で上映されるもの、という一般共通認識はあるものの、じゃあ映像作品と映画の違いってなに?という問いは関係者を悩ましてやまない。(私だけかもしれない)
映画というものにも色々ある、ということを知っていただけただけでもこのコラムの存在意義はあるのだが、このコラムのタイトルでもある「The Movie is total art=総合芸術としての映画」というものをどう捉えるかで、気づきが増えてくると思っている。あえて言葉にするならば、「冒険に出る」みたいな体験をもたらしてくれる存在ではないだろうか。
価値観の多様性を知る
「アート」というものの理解は本当に奥が深いし、多様だし、まともに議論することではない。「そういうものか」というある種開き直ったくらいがちょうどいいのかもしれない。映画の場合は、このアートの混ざり方が異様に多い。演出、撮影、芝居、美術、メイク、衣装、音楽、編集、そもそも企画やメッセージといった全体を貫く軸・・・。この全てにアート性が宿るものだから、映画の捉え方は何億通りにもなったりするのだろう。
映画を観終わった後に、あーだこーだ議論になったことがあると思うが、まさにそれが総合芸術たる所以。理解は人の数だけある。結末ひとつとっても、「別の可能性」で考えたらキリがないわけで、だからこそ、価値観がたくさんあることに気づくことができる。
そんな「引き出しの増やし方」も鑑賞以外の楽しみ方ではないだろうか。
自分の好みを知る
なんとなく好きだなあと思った作品を振り返ってみると実は全部同じ監督だった、ということがあった。こと映画においては、監督、役者、作曲家、美術家等それぞれにこだわりやメッセージがあって、まずはそのどれかひとつが好きになる。結果、その映画自体が好きになることの方が多い。とはいえ、映画はどの要素が欠けても成立しないわけで、一要素だけ好きになったかもしれないけど、その他の要素自体も案外自分の好みだったりする。いつの間にか、その映画の世界に在った息遣いをしてしまう。
そうやって新しい自分を感じるのも楽しみの一つではないだろうか。
知らなかったことを知る
そもそも映画(映像)の成り立ちというのは「記録」から始まっていて、「情報伝達」としてのメディアだった。その場にいなかった人のために、それをスクリーン上で再現し伝えることがその役割だ。「知らせる」という役割。
これは現在の映画にとっても同じことが言えるわけで、自分が体験したことのないことをスクリーンを通して「知る」という体験をする。そもそも「感動」とは、共感度が知っている感情の枠を超えた時か、未知であることを自覚して「すげえ!」ってなることだと思うので、つまりは感動したということは、未知を知ったこととも言えるのだ。
「知る」ことは、「好き」を増やす可能性でもある。それは自分自身に新しい価値を生み出す(気づく)瞬間でもある。アートの役割は多様であるが、こうした気づきを楽しむことがエンタメや文化としての理解ではないだろうか。
さて、ここまでの7回のコラムは、映画に関わる様々な立場の人たちに様々なカテゴリーで映画について書いていただいた。映画というテーマだけで、様々な視点を提供したり、話題を作ることができるのも映画の奥深さでもあるし、さらには映画にかかわらずアートがアートたる姿ではないだろうか。
つい先日、私が関わる映画祭が開催された。いわゆるインディーズフィルムの映画祭だ。シネコンとかで観られるものではなく、検索しても上映をなかなか目にすることができない作品ばかりだ。
だからこそ、この映画祭を訪れ、作品を鑑賞できた方々は貴重な体験をできたのだと思っている。少なくともシネコンという日常では得られない体験を得られたであろう。その制作者たちが語った「映画とは何か」も多様であった。映画を観るのと同じ感覚で、「なるほど」と得られるものが多かった。多様なモチベーション、多様な価値観、多様な解釈、多様な演出、挙げればキリがない。制作者の言葉さえもコンテンツ化される、というアートとしての在り方が、映画のおもしろさでもある。
こうは言えないだろうか。
「映画とは何か。それは、作品を通してあらゆる種類の体験を、自分ごとのように錯覚して得られるもの。」
すなわち、スクリーン上だけではなく、日常感覚においても体験をし、気づきとして自分に何か残るもの。それは、発見、楽しさ、笑い、癒し、共感、恐怖、なんでもいい、感情が動くこと。その感情の積み重ねで、私たちの人生や生活は彩られること。感覚なんて人それぞれなので、断言はできないが、おそらくそんな「感覚的な冒険」を得ることが映画体験なのかもしれない。
ただし、「さて、どんな体験をくれるのかな?」という上から目線ではおそらくいいものは得られない。(大概がっかりするし)あくまで対等な目線で向き合うこと。(それは制作者へのリスペクト)未知との遭遇を楽しむ心で向き合うこと。(それは作品へのリスペクト)自分の価値観をいったん忘れて世界に入り込んでみること。(それはアートへのリスペクト)
そんな気持ちで、また近々、2時間程度、映画という冒険に身を委ねてみてはいかがだろうか。
「なんか、いいものをみた」という感覚は、きっとあなたを裏切ることはない。