『メタモルフォーゼの縁側』の鶴谷香央理が紡ぐ、何気ない日々を愛したくなる物語~コミックエッセイ『don’t like this』レビュー~

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『メタモルフォーゼの縁側』の鶴谷香央理が紡ぐ、何気ない日々を愛したくなる物語~コミックエッセイ『don’t like this』レビュー~

毎日が忙しいと、どうしても投げやりな気持ちになってしまいがちだ。2021年も残りわずかとなり、年末疲れも感じる頃。大の字で寝たくなったり、休日には何もせずズボラを極めたくなる社会人も多くいることだろう。

どんよりとした曇り空に、外出するのも億劫だったとある休日。家で悶々としているよりかはマシだろうと、私は中古マンガショップへ自転車を走らせた。

道行く先で目に飛び込んでくるのは、イライラしながらクラクションを鳴らし続けるトラックの運転手、放置されたゴミの山。フラストレーションは一度生まれてしまうとなかなか消えてはくれない。鬱屈とした気分を抑えきれないまま店へ着き、ふらふらと当てもなく店内をさまよい、そして1冊のマンガを見つけた。

それが鶴谷香央理作『don’t like this』だった。

まず目に入ったのがタイトル。”don’t like this (これが嫌いだ)”と手書きで書かれた表紙には、ベッドの上で釣りをしている少女の絵。同じ作者の作品である『メタモルフォーゼの縁側』を読み、その穏やかで素朴な作風に惹かれていた私は、寸分も迷わず”作家買い”を決めたのだった。

物語の主人公は、ソーシャルゲームの絵を描くことを仕事にしつつ、親戚から譲り受けた豪奢な家に住み、なんてことのない日常を送っている”私”。茫漠とした時間を持て余しながらも、次第に新しい趣味や人々との輪を見つけていき、ささやかな楽しみに満ちた生活を送る姿が綴られている。

「トーチ Web」はこちら

連載元は気鋭作家を多く抱えるwebマガジン「トーチweb」。『姉の友人』『そしてヒロインはいなくなった』のばったん氏や、『自転車屋さんの高橋くん』の松虫あられ氏など、漫画好きなら知る人ぞ知る作家揃いのマガジンだ。

私の好きなもの

ペプシの青くて長いやつ

うな重 ピザの出前 フール―でアメリカのドラマを見ること

帰り道で 飛行機が大きく見えること

それ以外はそんなに好きじゃない

物語はこんなプロローグから始まり、実在する市ヶ谷や大井町周辺の雰囲気であったり、そこに暮らす”私”の日常生活をリアリティたっぷりに描いていく。コミックエッセイということもあり、実体験をベースにしたのだろうと思わせるエピソードが訥々と、しかし穏やかなテンポで続く。無添加・無着色ともいえる飾りっ気のないストーリーは、私たち読者の心にすっと入り込んでくる。

なかでも本作の魅力といえるのが、釣りの描写だ。表紙のイラストでも”私”がベッドの上で釣りをしているのだが、ひょんなことから右も左も分からぬビギナーとして釣りを始めた”私”が、だんだんと釣りの楽しさに目覚め、釣ったものを料理して食べ、時には釣り堀や川ではなく海に行ってみたりもする。

はじめて 自分で釣った魚を食べた

釣りを通して様々な体験をし、他人だった人たちと言葉を交わす中で、窮屈だと思っていた世界が大海を眺めるように広くなっていく。大げさに描いていないからこそ、主人公である”私”が見ている立場と同じ位置で、背伸びをしない高さで、「世界はそんなにつまらないものじゃない、むしろ好きだといえるものが沢山ある」ということを思い出させてくれる作品なのだ。

嫌いなものを好きになる瞬間。それはとても愛おしい感覚で、まだほんの少し苦手な部分もあるけれど、自分のペースで向き合っていけばいい。人生は長いように思えて短く、川のようでもあり海のようでもある。色々なことを経験すれば、その分だけ嫌いなものも増えていく。だけれど、好きなものも同じように増えていくのだ。

同作者の作品であり、2022年初夏の実写映画化が決定した『メタモルフォーゼの縁側』は先月キャストが発表され、女優の芦田愛菜&宮本信子による”年の差58歳”タッグの主演が決まった。

新たな年が近づくにつれ、寒さの深まる冬。人生の味わいを感じられる『don’t like this』を読んで、鶴谷香央理の紡ぐ世界を楽しんでみてはいかがだろうか。


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Ando Enu

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