人の若さは社会の価値観によって決められてしまうのか?

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人の若さは社会の価値観によって決められてしまうのか?

年齢の必要性がもたらす理不尽さ

「お姉さん、若いんでしょ?」

こちらに向けられた人差し指と中指に挟まった煙草から、ゆらゆらと煙が昇る。たまたま地元の飲み屋で居合わせた男性に話しかけられた。どうやら年齢を聞かれているらしい。

良くも悪くも年齢を大切にする日本では、コミュニケーションの初めに相手の年齢を把握することはざらだ。年齢から相手の人生ステージを何となく推し量り、そこから質問を選んで会話することがあるだろうし、ひとつの切り口になっているのは確か。また早々に敬語・タメ語の言葉遣いの問題をクリアしたい人にとっては、より必要な情報になるだろう。

そうした年齢の必要性を理解する一方で、不必要なほど敏感になってしまう人も一定数いる。年齢は単純にその人が生きてきた「時間」を表す事実に過ぎないのだが、社会から不名誉なレッテルを貼られたり、不本意な意味合いのカテゴリーに入れられたりして、理不尽な偏見や差別が生まれてしまうのもまた事実だ。

どうして偏見や差別が生まれてしまうのか。実際にあった会話を元に、社会の「年齢」や「若さ」に対しての価値観を改めて考え、その理由を探ってみたい。

そういえば、若いって何歳?

お互いの名前すら知らない状態でこの会話は始まる。確かに会話の切り口になるとは言ったが、いきなり「若い」を前提に話しかけられたことに少し戸惑いつつも、聞かれたことにただ答える。ちなみに見た感じでは、男性はおそらく50代くらいだ。

男性:「お姉さん、若いんでしょ?」

筆者:「まぁ、若いです」

男性:「何歳?」

筆者:「29です」

男性:「全然若くないじゃん!(苦笑)」

言葉の端に嘲笑を滲ませながら、あまりにもリズミカルにバッサリ否定されたことに少し驚いた瞬間、ふと頭に浮かんだ疑問を彼に投げかけてみた。「じゃあ若いって何歳だと思いますか?」

彼は質問には答えず、心底面倒くさそうな顔をしてそっぽを向き、再びグラスに口をつけた。この後店を出るまで、互いに言葉を交わすことはなかった。

生き物としてか、社会的になのか

明確な年齢は定義されておらず、曖昧な境界線が引かれる「若い」と「若くない」。試しにGoogleで「若い 何歳まで」と調べてみると、各々の主観に任せられている答えは全て正解のようにも見えるし、正解ではないようにも見える。彼の「若くない」には、一体どんな意味が込められていて、どうして29歳は若くなかったのだろうか。

考えられる一つ目は、生物学的な意味。東洋医学の教科書と呼ばれる文献『黄帝内経(こうていだいけい)』によると女性は7の倍数、男性は8の倍数の年齢で身体に変化が訪れると言われている。養命酒のCMでもお馴染みの話だ。

29歳女性に一番近い年は、28歳の「女性として身体が最も充実する」らしい。その次の35歳は「容姿の衰えが見え始める」だから、目に見える変化はないまでも29歳以降は確実に老化が始まっている=若くない。彼にはこの前置きがあってのことだったなら、「若いって何歳?」という問いにも自信を持って答えて欲しかったものだ。

二つ目は、社会的な意味。おそらく彼は29の数字を聞いて、「アラサー」という言葉を思い浮かべたのではないだろうか。

アラサーは2006年頃に生まれた和製英語で、女性雑誌が具体的な数字を避けて年齢を伝えるために使い始めたとされている。この言葉には、本来の目的以外に「もう若くないね」「やばいね」「結婚適齢期・婚活」「独身?」「子どもは?」など揶揄や焦燥感を駆り立てるようなニュアンスが含まれている。この押し付けは、男女関係なく誰でも感じたことがあるはずだ。中には辟易するほど浴びせられている人もいるだろう。

比較的新しい言葉ではあるが、世間の浸透具合からすると「アラサー=若くない」は一般的な共通認識と言っても良いのかもしれない。となると、脈絡や文脈をみても「(“アラサー”だからもう)全然若くないじゃん!」が彼の真意により近く当てはまるだろう。

「無意識」がデフォルト設定

このような年齢をぼかす表現が生まれた背景には、「歳をとること=ネガティブ」が人のデフォルト設定として組み込まれてしまっていることが考えられる。

なぜなら人は都合良く忘れることができるが故に、戻ることのできない過去を美化して、今が一番老いていると思ってしまうから。「死」の地点から逆算すれば、今この瞬間が一番若いはずなのに、だ。さらに、皮肉にもそのデフォルトが活きてしまうのが、「へりくだること」が美徳やマナーとされている日本社会である。

例えば、20代前半くらいの人が目上の人からの「若いね」の言葉に対して、「いやいや、もう○歳ですよ」と返すのが常套句となっているように、年齢が一種のへりくだる道具になっている会話に身に覚えがある人はいるのではないだろうか。もしかしたら、年齢を聞いてきた彼にも「もう若くないですよ」と返すのが、社会的な模範解答だったのかもしれない。

しかし、それは一体誰に教えられたものなのだろうか?誰が決めたことなのだろうか?

本来千差万別であるはずの個人の価値観を押し殺し、教科書があるわけでもなく目に見えない社会の価値観や空気感に合わせることができている。それは私たち日本人が得意としている“察する”ことを「無意識」にしているからだ。

社会ファーストから自分ファーストへ

文化的に染み付いてしまっている、社会の価値観を無意識に察して同調すること。これが知らず知らずのうちに、アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を蓄積してしまっている。無意識に偏見を持ってしまっているのだから、差別していることにすら気付けない。つまり「無意識」でいることが、世に蔓延る一連の差別を引き起こしているのだ。

無意識で考えないでいる状態というのは、実際のところ物凄く楽な状態だ。今回の男性との会話のように、社会が定めるとする「若さ」の価値観も、疑問を持たずに仕方のないことだと受け入れていれば叩かれることはない。

しかし近年では、ジェンダー平等の実現や諸々の差別などを是正しようと訴える運動が活発化し、新たな時代へと荒々しく脱皮が始まっている。もし、察して同調している社会の価値観の中で、違和感や心地悪さを感じることがあるのなら、時代の波に任せて自分のベクトルを少しだけ変えてみるのはどうだろう。デフォルト設定を自分で書き換えてみるのもいい。アンコンシャス(無意識的)からコンシャス(意識的)になった時、今まで被っていた理不尽な何かに気付くだろう。それは年齢かもしれないし、また違うことかもしれない。

社会から預けられた価値観や基準をそのまま享受して、自分のものにする必要は全くない。自分で選んで、自分で決めて、自分が若いと思うならそれでいいのだ。ましてや酒場で会った名前も知らない人に価値観を決めつけられる理由なんて、どこにもないのだから。

文:千葉ナツミ

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