藤井風の楽曲に吹く”風”たち 音楽で風を感じるということ
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彼のことを、人は”風”と呼ぶ。
2020年に1st配信シングル「何なんw」でメジャーデビューを果たした藤井風。類まれなる音楽のセンスと飾らず自然体な人物像は、たちまち多くのリスナーの心を鷲掴みし、一気に旬なアーティストとしてその名を知らしめた。
幼少期より音楽に触れて育ってきた彼が創り出すのは、良い意味で荒唐無稽、どんなジャンルの固定概念にも縛られずたおやかに流れるグルーヴィーなサウンドだ。4人兄弟の末っ子として名付けられた「風」という名前は、彼の人となりをそのまま言い表しているといえよう。
藤井風のファンは皆、彼の音楽に”風”を感じている。自由で気まま、どこに向かうかも定められていない。現代に共振し、震え、生まれる風をその頬で感じていたいと思うファンたちの姿を度々目にしてきた。今回はそんなリスナーライクの、藤井風が歌うそれぞれの楽曲にどんな”風”を感じるかを、筆者もつとめて自由に、何にも囚われることなく感じるがまま綴っていきたいと思う。
まずはメジャーデビューのきっかけとなった1st配信シングル「何なんw」だ。奇抜なタイトルがまず目を引く本作だが、耳を傾けてみればそこには上質なブラック・ミュージックの源流を感じられる音楽が立ち現れてくる。心の赴くままに連ねられたネイキッドな言葉たちを遊ばせているサウンドは耳に心地よく、どこかアカデミックな部分すら覗かせている。
本作は日本という限られた場所を舞台としない、藤井風という人物における所在の自由度を証明している曲といえる。ここで流れている”風”は、ひとつの場所、ひとつの国に留まることを知らない”風”だ。名も知らぬレコード店の前を通り過ぎた”風”かもしれないし、ニューヨークの路地裏、吹き溜まりから宙に還った”風”かもしれない。誰もその結末を知らないし、終わりも始まりも分からない。ただ、決められた場所に存在することのないものだけが知っている広がりを、この曲は内包している。未来の藤井風に、筆者は幻想する。いつしか日本を飛び出し、街から街を渡り、踊るように「何なんw」を歌い、観客を沸かせる彼の姿を。
3rdシングル「優しさ」のサビは、現代の音楽史に残る優れたサビだと主張したい。このサビこそが筆者の考える藤井風の”風”たる部分だ。突き抜けるような「Ah」の歌声から繋がる歌詞はひどく優しいもので、彼がしばしばその言葉で表現しようとする感受性の高い生身の感情を、ストレートかつ抒情的な詩によって顕現させたものになっている。
ミュージックビデオに映された、己の中に人知れず潜む記憶の断片をかき集めたかのような映像の切れ端たちがエモーショナルを増幅させているのは言うまでもない。本作はそういったデ・ジャヴにも似たイメージにおいて、頬を掠める風の気配を感じられる作品だ。
眠る「あの人」を起こさぬよう、そっと見つめる「わたし」のそばで、風は吹く。無味無臭の風が野の花を掠め薄く匂いを帯び、えもいわれぬ美しさを立ち上らせる。人の手で創られた音楽<聴くことにより生まれうる情動>を、風という自然<不随意的に起こる情動>と一体化させることに成功している、奇跡のような楽曲がこの「優しさ」なのだ。
1stアルバム「HELP EVER HURT NEVER」のラストを締めくくる「帰ろう」は、彼が音楽で表現しようとするものの究極形であり、前述の「優しさ」がイメージにおける”風”なのだとしたならば、「帰ろう」はメッセージとしての”風”だと考える。
日本語の美しさを意識したという本作は、その言葉の通り、サウンド面とはまた違った角度から独立して世界観を確立しており、――ブックレットに載る歌詞だけでもひとつの作品になりえる――、まるで一編の小説を読んだ後のような余韻を残させる。
自分の中に吹いている風、いわば内在的な風に目を向け、それが死者であれ生者であれ等しく皆の心に吹いているものと定義し、回顧と忘却による感情を呼び起こさせる。歌詞に紡がれた死生観、死と生の狭間に吹く風は、人間という生き物の狭間に吹く風であり、どの時代においても存在しうる普遍的なものだ。しかし藤井風が肉声で歌うことによりオリジナリティが付加され、そこに吹く”風”は「五時の鐘が鳴り響いたときに吹いた風」となる。普遍的から限定的へと変化し、はっきりとした情景の中に佇み抱く感情は特別なものとなる。
「帰ろう」の中に吹く”風”もまた、暮れなずむ時の色と匂いのついた、そこにしかない”風”なのである。
藤井風というアーティストは、風を生む。音楽で、何もない場所から風が起こる。そんな奇跡のような瞬間を目の当たりにできる幸せを感じながら、リスナーのひとりとして自らも「風」のようで自由を愛する人である藤井風が歌い、赴く先を追いかけていきたい。
藤井風 公式YouTubeチャンネル