伝説のクリエイティヴ集団《BUFFALO》が遺したもの

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伝説のクリエイティヴ集団《BUFFALO》が遺したもの

追悼、ニック・ケイマン

5月5日、歌手/モデルのニック・ケイマン(Ivor Neville Kamen、通称Nick Kamen)の訃報が報じられた。享年59歳。2015年、52歳で亡くなった弟のバリー・ケイマン(Barry Kamen)同様、惜しまれる夭折である。

英国エセックス出身であるニック・ケイマンは、1980年代に世界を席巻した伝説のクリエイティヴ集団”BUFFALO”の一員としてその名を馳せた。ビルマ(現ミャンマー)、アイルランド、フランス、ドイツ、イギリスの血を引く家系に生まれたニックは、その一眼では人種の判別のつかないエキゾティックな顔立ちがBUFFALOの創設者レイ・ペトリ(Ray Petri)の目に留まり、19歳の時にモデルとしてスカウトされた。

BUFFALOは1980年代初頭、スタイリストのレイ・ペトリ、写真家のマーク・ルボン(Mark Lebon)、ロジャー・チャリティー(Roger Charity)、ジェイミー・モーガン(Jamie Morgan)らによって創始された。BUFFALOは謂わば集団、仲間、ギャング、ユニットのようなものであり、固定化された組織ではない。メンバーはただ、寡黙なレイの作り上げる「KILLERスタイル」を究極の目的として、それぞれが自然と集まるようなクリエイティヴ集団だった。今でいうギルド型組織である。

BUFFALOは活動と共に輪を広げ、モデル、スタイリスト、ミュージシャン、メイクアップアーティスト、ペインター、グラフィックデザイナーなどが、ロンドンを中心とし雑多に集合した。その殆どが移民で構成されているのも特徴の一つである。

ニック・ケイマンのBUFFALOとしての活動は、1984年1月号のThe Faceの表紙に抜擢されたことに始まった。当時、白人だらけのファッション紙にて、アジア人との混血であるニックを起用したことは大きな評判となった。最も革新的だったのは、有色人種を起用したことに特別なメッセージや啓発はなく、「ただ格好良いから選ばれた」という理由だったことである。レイは殊にニックの風貌に惚れ込んでいたらしい。

その鮮烈なデビュー以降、弟のバリーと共にBAFFALOの顔として英国のファッション紙に載る傍ら、ニックは歌手としても活躍した。マドンナが作曲とバックコーラスを務めた「Each Time You Break My Heart」は英国週間チャートTOP5に入り、英国のみならず、ヨーロッパ全土で人気を博した。

ニックの訃報を受け、多くの著名人から追悼のコメントがされている。マドンナ、デュランデュラン、ボーイ・ジョージなど、彼らはニックを、”Sweetest”や”Gentlest”、”loveliest”といった言葉で形容した。

彼の愛に溢れた人間性は、言うまでもなくBUFFALOでの経験により培われたのだろう。

BUFFALOの功績

BUFFALOはその短い活動期間の反面、数々の伝説を作り上げた。その功績の一つに、ファッション業界のタブーをいくつも打ち破ったことが挙げられる。

先述したニックの起用の件はもちろん、レイはその絶対的な審美眼により、当時棲み分けられていたファッションカテゴリーを渾然一体にさせ、革命的なミックススタイルを提案した。今では当たり前となった「スポーティ×ラグジュアリー」や、「民族衣装×ストリート」といった異なるジャンルを一つの物語として共存させた表現は、BUFFALOがその開拓者である。

また、彼らは進んでストリートハンティングを繰り返した。当時14歳だったナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)や12歳の少年フェリックス(Felix Howard)、フランスで警備員として働く黒人の男性ビッグ・ジャック(Jack Negrit、通称Big Jack)をモデルとして起用し、彼らをスターダムへと押し上げたのである。そこに人種や性別といった境界はなく、それぞれがレイ達の手によって「KILLER」としての風貌を託された。BUFFALOは’80年代から、いち早く多様性を讃えていたのである。

そして、”BUFFALO”という名称はその警備会社の名前「BUFFALO」から名付けられたという。その逞しい響きがボブ・マーレイの楽曲「BUFFALO SOLDIER」を想起させ、彼らの姿勢を表すのに最適だったそうだ。

そしてレイは、警備会社のユニフォームであった、背中に”BUFFALO”とステンシル加工が成されたMA-1フライトジャケットに興味を惹かれ、それをプレゼントされるに至った。それ以降度々雑誌でモデルに着用させ、かつレイ自身も日常で着用しBUFFALOのメンバーでクラブや潜り酒場に出向いたことで、若者はこぞってそれを真似た。

MA-1をストリートファッションに定着させた功績は、BUFFALO最大の功績だと言われている。

BUFFALOは1983年頃から始まり、The Face、i-D、Arenaといった雑誌で斬新なファッション写真を披露し絶大な影響力を誇った。その活動はレイが41歳、エイズにより亡くなる1989年までの短い間であったが、その影響は「スタイリスト」という言葉一つにも現れている。

当時、ファッション紙で服を用意し着せる役割の人物に名前や役職はなかった。それぞれがデザイナーに指示された通りに衣装を着せ、ライティングも予定調和であり、自由にクリエイティヴを表現できる機会は少ない世界だったのだ。

しかしレイ達によるBUFFALOでは、レイは用意した服をそのまま着せるだけでなく、ジュエリーやミリタリーのワッペン、安全ピンなどを多用しモデルをとことん着飾らせた。写真家のマークやジェイミー達の意見も大いに取り入れ、モデル達から湧き出る慎ましさと勇敢な魂を写真に収めようと努めた。

そのようなディレクションまで手がける役職は当時クレジットする方法がなく、そこで初めて「スタリイング:レイ・ペトリ」と表記されたのである。「スタイリスト」という役職はここから始まった。

レイ・ペトリを継ぐ者

1989年の悲劇的なレイの死後、バリー・ケイマンはスタイリスト、画家として活動した。レイに「弟子」と称されてきたバリーは彼の側でモデルとしてスタイリングを学び続け、BUFFALOの魂を受け継いだのである。

しかし、レイ・ペトリのいないBUFFALOはBUFFALOではなく、彼らは自然と解散した。その為、バリーは元BUFFALOのメンバーとして活動していた。彼は、レイがほとんど手がけなかったファッションデザインまで手掛けることになり、BUFFALOという名前は使わずとも、その魂はさらなる広がりを見せたのである。

しかし、悲劇は2015年10月に起こった。バリーは52歳という若さで急逝したのである。

これは同年3月に行われたTOKYOコレクションTAKEO KIKUCHI2015AWでの活躍や、同年の秋冬に発表されたDr.Martensとのコラボレーションにて、不朽のBUFFALOスタイルを披露した最中のことであった。

バリーにはアシスタントがいた。シエラレオネ出身、名をイブ・カマラ(Ibrahim Kamara、通称Ib Kamara)という。

彼は今、自身のルーツであるアフリカ系黒人モデルを多く起用するファッションスタイリストとして広く注目されている。

そのスタイリングは一眼でBUFFALO、殊にバリーの影響を窺える。ミックスカルチャーであり、反骨的であり、何より愛と遊び心に溢れている。今やVogue hommesなど世界のファッション誌にて、アフリカ系ファッションカルチャーを以て席巻している。

このようにレイ達が作り上げたBUFFALOの魂は脈々と受け継がれているのだ。

2021年の多様性

レイ、バリーが去り、ニックまで去ってしまった2021年。イブ・カマラというトップスタイリストも誕生し、世界はさらに多様性が叫ばれている。かと思いきやそれにより新たな議論が沸き起こっている。

その一つが、米・バイデン氏の大統領就任時にアマンダ・ゴーマン(Amanda Gorman)が読んだ「The Hill We Climb」(私たちが登る丘)の翻訳をめぐる人種問題についてである。

オランダの白人であるマリエケ・ルーカス・ライネベルト(Marieke Lucas Rijneveld)は、マン・ブッカー国際賞2020年で最優秀賞を受賞した29歳の小説家である。

マリエケは、満を侍してアマンダ・ゴーマンの詩のドイツ語翻訳を任命された。しかしオランダの活動団体から反発があり、辞退を余儀なくされた。

「アフリカ系の詩人が書いた詩はアフリカ系の人が翻訳すべきだ」との要求を受けたのである。

またスペインでは、カタルーニャ語の翻訳を手掛けるはずだった白人のヴィクター・オビオルス(Víctor Obiols)も、同様の理由で却下された。

彼は、「私が若い21世紀のアメリカ人女性でないという理由で翻訳できないとしたら、私はホメロスもシェイクスピアも翻訳することができません。」と発言している。

これらの一連の出来事は、その賛否含め、未だ議論が絶えない。

この翻訳者を巡る人種問題について、筆者は賛同しかねる。人種による翻訳者の制限は、いかにも人種こそが人間の本質であるかのような論調であり、それが反対にracism(人種主義)を推し進めているように感じてしまう。

人種や国籍は、人の本質であるのだろうか?

昨今のこうした過剰なポリティカルコレクトネスの社会状況の中では、BUFFALOが産まれることは不可能だったろう。レイ達は審美眼に能うものであれば何でも進んで取り入れ、それらは「KILLERスタイル」として再編集された。その中にはネイティヴアメリカンのウォーボンネットや、ジャマイカのレゲエファッション、東南アジアのサロン(男性用スカート)など、今であればルーツを持たなければ糾弾されることは逃れられないものも、彼らはスタイリングに用いた。彼らのスタイルをそのまま2021年に再現すれば、おそらくその一部は非難の対象となっただろう。

BUFFALOの目指した人間性

BUFFALOが目指したものは何だったのか。

寡黙のカリスマ、レイ・ペトリはどんな世界を目指していたのだろうか?

レイは多様な文化を混在させることで、全ての人類の美しさを讃えたのである。

幼少期をスコットランド、ジンバブエ、オーストラリアと世界各国を転々と暮らしたレイ・ペトリにとって、人種や国籍といったステータスは、自由に組み合わせられるものの一つだったと言えよう。多様なルーツが、多様な文化を慈しめるレイを作りあげた。彼が目指したスタイルはその通り、人種や国籍、性別、年齢、あらゆるものの垣根を超えて”HARD!”を目指すことにあった。

「BUFFALOは挑戦的、反骨的だと思われていたかもしれないけれど、本当は愛をすごく大切にしていた。」とバリーは生前に語った。

「レイは何でも愛に結びつける。あまり気づかれなかったけれど、私たちの作品には愛が溢れていたんだ。」

強靭な愛は時代を超え、万物を射貫く力を持つ。BUFFALOの作品に見られるあの瞳の輝きは、万物を愛し慈しむ心の顕現なのである。

翻訳に於ける人種問題にあるような、その者の特性とそれによる是非を、人種という一つの観点のみを取り上げて論争をすることは、多様性を目指す社会と近しいようで、相容れないはずである。

人の本質をその身体的な特徴からではなく、裡から沸き出づる意志の強さに認めたレイ・ペトリ。彼の遺したメッセージを2021年の今、改めて取り上げるのは無駄ではないだろう。

Text by Kenta Kawamura

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